立川を飛んだ機体 日本航空輸送
    
  
    

初版 2014.07.20

立川飛行場(立川を飛んだ機体 日本航空輸送株式会社)
 
フォッカー スーパー・ユニバーサル
 日本航空輸送が近距離路線用に機種選定したのが本機種で、木製・乗員2名+旅客定員は6名。
 まず6機(登録記号J-BASO,BATO,BAUO,BAVO,BAWO,BAXO)を輸入し、昭和4年5月以降に到着した。上写真もその1機J-BAWOで、立川飛行場での撮影と推測される。
 昭和4年7月15日の、国内定期旅客(東京−大阪−福岡)第一便の立川発機は、J-BASOであった。
 その後、ノックダウン機(部品を輸入、国内で組み立て)と中島飛行機での生産機(昭和5年9月より製作、翌年3月に国産機第一号が完成)も併用したが、本機より少し遅れて輸入された3m(右)の到着により、地方路線に本機が用いられた。
 通称はスーパー。客室は通路を挟んで籐椅子が2列、トイレはもちろんなく、機体前方のエンジンからの排気ガスと新藤、騒音はそのまま客室になだれこみ、乗客は耳栓をして耐えていた。
  フォッカー F.Zb/3m
 長距離路線用の大型の機体として導入されたのが本機種で、昭和4年7月以降に6機が輸入された。本写真のJ-BBSOもそのうちの1機。他にはJ-BBLO,J-BBMO, J-BBTO,J-BBZOなど。
 220馬力×3発となったことで、旅客定員は8名へと増加し信頼性も向上、9月から(東京−大阪−福岡−満洲の幹線に用いられた。機体は木製のまま。
 本機種には導入当初から機体固有名称があり、本写真のJ-BBSOは「ひばり」。機体がまだ綺麗であることから、輸入直後の立川での撮影と思われる。
 本機の通称は、サンエム。
スーパー こぼれ話
その1
 スーパーは木製で、それ故に多湿の日本では機体強度の面で不安があった。
 このため、1機を昭和7年に早めに退役させ、航空局が強度試験を行った。その機体が本J-BAWOで、6月10日に操縦士・機関士、30数余名が参加して廃棄のお別れ会が開催された。

その2
 スーパーの導入時、操縦教官として一人のドイツ人教官ルードビッヒ氏(右写真、昭和4年9月28日東日府下版より)が派遣されてきた。ル氏による教育は昭和4年6月以降に実施され、10月にはルードビッヒ氏は横浜からの船で帰国の途についた。
 時は巡って、昭和12年12月。
前述の操縦教育を受けた一人である松井勝吾氏は、所z九していた満洲航空のハインケルHe116機導入に際して他数人らとともに技術習得のためドイツに派遣され、ルフトハンザの副機長資格で夜間郵便飛行に従事した。
 ある時の機長が、松井氏が日本人と知れると「以前、日本に行ったことがある」という話になり、前述の教官ルードビッヒ氏であることが判った。
これだけなら単なる邂逅にしかすぎないが、そのル氏が言うには「スーパーの操縦は、あのときが初めてだった」とのこと。驚くべき時代であったということだろうか。
(『航空輸送の歩み』(昭和50年7月、大日本航空社史刊行会 )より)