最終更新日 2022-03-09
日野の記憶(絵葉書による近代記憶)
年月 見出し 絵葉書 補足
蚕業試験場 日野桑園  宛名面が1/3線であることから、明治40(1907)年4月〜大正7(1918)年3月までに発行の絵葉書と分かる。
百草園八幡宮  こちらも宛名面が1/3線であることから、明治40年〜大正7年3月までに発行の絵葉書と分かる。
玉川亭庭前の夕照  日野の渡し(現在の立日橋)近くで明治期〜昭和10年前後まで営業していたとされる玉川亭で、鮎料理で有名になった。創業者の天野要蔵は四ッ谷の生まれとされる、幕末の人。土方歳三とも関係があっただろう。
 宛名面が1/3線であることから、明治40(1907)年4月〜大正7(1918)年3月までに発行の絵葉書と分かる。  
東京府日野町玉川亭 鮎漁場(立川渡辺発行)  玉川亭の網による鮎漁場。
 宛名面が1/2線であることから、大正7(1918)年4月以降の発行の絵葉書と分かり、日野橋前身らしき橋があることから、日野橋架橋(大正15年)までの撮影となろう。  
大正10(1921)年11月 日野台御野立場の笠松  大正10年11月神奈川県と東京府で行われた秋の陸軍大演習で、統監である皇太子(のちの昭和天皇)が休憩された場所にあった松。『大正一〇年陸軍特別大演習東京府記録(大正14年3月)』でも、笠松と記載されている。
 場所は現・矢の山公園付近。
右は同演習を記念した『大正一〇年陸軍特別大演習東京府記録』の中の該当写真と推察されるもの。
大正10(1921)年11月 日野台御野立所付近  木村正直堂発行の組絵葉書から、大正10年11月神奈川県と東京府で行われた秋の陸軍大演習での日野御野立所(現・矢の山公園付近)の様子。
右は同演習を記念した『大正一〇年陸軍特別大演習東京府記録』の中の該当写真と推察されるもの。
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高幡不動  絵葉書面の左隅にMATUSDAIRA、宛名面の下に「東京新宿松平写真館謹写」とあり、発行所が分かる。
 宛名面が1/2線であることから、大正7(1918)年4月以降の発行絵葉書と分かる。
第一師団機動演習実況
撃戦後ノ日野町停車場
 年不詳も、宛名面が1/2線であることから、大正7(1918)年4月以降の発行絵葉書と分かる。
 東京府を管区とした第一師団、他に玉川ニテ工兵隊活動の絵葉書もあることから、初代の日野駅であろうことが分かる。他の絵葉書は、以下。
自動車ニテ追撃中ノ機銃隊
西軍騎兵追撃隊
休戦中歩兵ノ夢隊
通信隊活動隊
東軍歩兵ノ追撃隊
東軍歩兵総攻撃
騎兵ノ突撃隊
道路上ニ於ケル西軍防御
砲兵陣地
東軍歩兵隊
前哨部隊(夜間撮影)隊
天幕露営(夜間撮影)隊
師団長ノ講評
大正15(1926)年8月頃 日野渡船場、日野橋全景
橋面舗装工、路床混凝土工
(恐らく立川側からの)日野橋正面、吉見橋  吉見橋は、かつて根川に掛かっていた橋(葦見橋とも)で、立川市営球場近くにある現「よしみトンネル」がその後継に当たる。絵葉書では綺麗なので、日野橋と同じころに整備されたのだろう。

(立川名勝)日野橋ヨリ富士ノ望遠
  [立川]日野橋  絵葉書は、「立川名所絵葉書・第二輯(立川 三羊堂文具店・南羊堂書店 発行)」から。「新井写真館撮影」とあり、立川のアライ写真館の撮影である。
昭和7年頃 多摩川上空の乙式一型偵察機  「多摩川上空の」とある絵葉書。川沿いに分岐する貨物線らしき鉄道が見えるので、写っている橋は中央線多摩川鉄橋となりそうだが、その奥に見える多摩川の蛇行具合やさらにその奥に海が近い雰囲気もあることからもっと下流での撮影かもしれない。
 飛んでいるには、乙式一型偵察機。
乙式一型偵察機の編隊  場所不明も左下が多摩川とすると、その向こうに細く見えているのは浅川か?。橋は高幡橋とすると、その左奥に見える街並みはお不動さんということになる。
 こちらも、乙式一型偵察機。右の機体の垂直尾翼が黒っぽいのは、方向舵全面を一色に塗る飛行第五連隊の部隊標識に従っているため。
多摩川上空の八八式偵察機  中央線多摩川鉄橋で、手前が日野側。
 飛んでいるは、八八式偵察機二型・603機。
昭和11(1936)年?頃 吉田時計店日野工場
寄宿舎
昭和11(1936)年〜 鮫陵源
 昭和6(1931)年に着工され、同11年に開園。同15年には全施設が完成したものの、同18年に閉園した、釣り堀や飲食店などによる複合遊園地。
場所は、現在の東京都住宅供給公社平山住宅で、上絵葉書にある三角屋根の建物(南入口)付近に、今の交番があるとされる。
昭和30(1955)年?頃 平山城址公園


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