最終更新日 2023.08.20
2023.12.02

 本サイトが取り上げている乙式一型偵察機とは、第一次世界大戦の最中の1917年4月に初飛行したフランスのサルムソン2A2の帝国陸軍における制式名称です。

■サルムソン2A2とは
 第一次世界大戦の始まった1914年、フランスのサルムソン社は、それまでの航空用エンジン製造に加えて飛行機設計も始め、1917年4月には自社エンジン(AZ9、星型水冷9気筒230馬力)を搭載したサルムソン2A2(サルムソン社の2番目のモデル、A2は2人乗り偵察機を示す仏陸軍符号)を完成させました。優秀な機体で、仏陸軍ばかりでなく米国遠征軍にも配備され、総生産機数は約3,200機を数えます。うち約2,200機がサルムソン社製、残りは他社にてのライセンス生産で、洋書のWINDSOCK DATAFLE 109/"SALMSON 2A2"では2A2の機体番号は次となっています。


 第一次世界大戦中〜戦後において、同機はアメリカやベルギー、チェコ、ペルーなど世界各国に輸出されました。日本もその一つです。

■日本での導入
 日本では、陸軍が大正7(1918)年春に前出の発動機の製造権を買ったことに端を発し、7月にはサルムソン2A2の30機購入も決まりました。これら輸入機は大正8年には日本へ到着しはじめ、機種標記には当初「サ式2A2型」が用いられています。機体番号はオリジナルの番号がそのまま使われており、当時の絵葉書(右)からそれは分かります。絵葉書には手前に4252号機、奥に5341号機が見えています。
 輸入機は、フランス陸軍機の基本迷彩パターンに従って塗装されたままと推測され、細部は異なるものの基本的には全機が同じ迷彩パターンでした。前出の洋書などでは、水平尾翼右上面に濃い茶色(または黒色)の斑が、同左上面には薄い斑が見えます。それは日本における輸入機でもそれを見ることができ、絵葉書のクローズアップ部分でも見てとれます。即ち、当時の仏陸軍機の公式迷彩のまま日本に渡ってきており、そのまま使用されたことが推測されます。

■日本での国内生産
 輸入機に加えて、陸軍は川崎造船飛行機工場(当時、現・川崎重工)に試作を指示しました。同社は大正7(1918)年9月に機体と発動機の製造権を購入、大いなる苦労を経て着手から3年4ヵ月後の大正11(1922)年11月に岐阜県各務ヶ原でライセンス生産1号機を完成させています。機体番号1001号機がそれで、岐阜かがみがはら航空宇宙博物館に展示されている実物大模型は同号を模しています。同社の生産は昭和2(1927)年までに300機を数えましたが、川崎での生産進捗が思わしくなかったためか当初からそのつもりだったのか、川崎に並行して陸軍航空補給部(所沢支部)で約300機(機体番号101〜402?)、東京砲兵工廠で約330機(機体番号501〜832?)の生産が行われました。
 川崎造船や陸軍による国内生産機は陸軍制式名を「サ式2A2型」から「乙式一型偵察機」に変更しながら運用され、陸軍機の機体色である「灰緑色(いくぶん青みががった灰色)」のドープで塗装されました。輸入機も、順次この色で塗装されていったと考えられます。左の写真は、大正10(1921)年9月、所沢−長春間の長距離飛行における4機で、手前の4214号機(輸入機)も奥の109号機や105号機と同じ塗装が施されていることが分ります。  なお、市販書では大正11年に陸軍機の機体色は「灰緑色」になったとあるのですが、この時点では何色だったのかはっきりしていません。