九一式戦闘機年表
年月日 種別 記事 出典
大正15年5月試作甲式四型(ニューポール29)に代わる戦闘機としての試作申請、陸軍大臣に提出。大正15年 陸密第五三九号
    
昭和2年2月試作上記計画が認められ、中島、三菱、川崎、石川島の4社による設計審査が開始される。陸軍資料
昭和2年11月試作設計審査終了。上位3社(一等:中島、二等:三菱と川崎)に試作指示がなされる。昭和2年 航発技 第八六号
    
昭和3年5月試作中島の試作機「NC機」完成。所沢での飛行審査に。 
昭和3年6月試作所沢において、三菱の試作機「隼」が降下中に主翼分解したことにより飛行審査中止。
所沢にて各社機を強度試験(急降下、ピッケ、動力停止垂直降下の3種の過重試験、陸軍航空本部技術部の安藤成雄技師の考案)することになり、NC機がかろうじて合格、改修を条件に試作を継続。
『回想の日本陸軍機』
    
昭和4年事故NC機、所沢での試験中、所沢飛行学校教官兼技術部員の斉藤庄吉中尉による錐揉み試験中に水平錐揉みに陥り、落下傘で脱出。『陸軍航空の鎮魂』
昭和4年8月13日事故NC機、明野で実用試験試験の際、原田潔中尉による垂直降下中に主翼分解。中尉は落下傘で脱出。
(尚、新聞等には甲式四型(116号)の事故として発表と、陸軍資料にある)
昭和4年8月 陸密第四七五号
    
昭和6年12月26日採用陸普第五五二六号にて、仮制式採用。昭和9年 陸普第四八一五号
    
昭和7年1月8日飛行代々木練兵場での陸軍初めにおいて、九一戦3機が飛行。『飛行機とともに』(斉藤茂太、中公新書)
昭和7年1月10日飛行愛国1号、2号の命名式(代々木練兵場で)において、航空技術部の九一戦2機(秋田大尉、横山中尉)がアクロバット飛行を披露。航空事情(S7.2)
昭和7年2月8日事故所沢飛行学校の八八式偵察(山下裕 航空大尉、佐藤喜勢次 航空大尉)は、所沢−明野間の無着陸往復飛行途中、午後2時ごろ、明野飛行学校付近上空300mで明野飛行練習機の九一式戦闘機(110号、野田善貴世 航空少佐操縦)と空中衝突し、三重県渡会郡豊浜村に墜落。搭乗者は殉職。航空年鑑 昭和8年版
昭和7年2月22日配備独立第三飛行中隊に九一式戦闘機4機(ジュピター7F型420馬力発動機6台、プロペラ6台)を、尉官2名、特務曹長2名、下士官1名とともに追加配属決定。  
  • 明野から、原田潔大尉、梼原秀見中尉、中畑憲夫特務曹長、井村忠七曹長
  •   
  • 陸軍航空本部から、松村定三曹長、手島正一雇員

  • 昭和7年2月 陸満密第二三二号、航人普第三五号
    派遣人員は『空の先駆者 徳川好敏』『ノモンハンの空』より
    昭和7年4月16日事故飛行第二中隊(第三中隊の誤記?)の梼原秀見中尉は、九一式戦闘機(111号機)による操縦練習中、上海飛行場上空1,000mでガソリンパイプから発火、中尉は落下傘にて脱出降下。機体は上海大学北クリークに激突粉砕。
    『写真記録 航空事故』(野沢正、1961)に、上海事変における機種交替時の試験飛行時墜落写真がある。上記の4機中の1機か?
    航空年鑑 昭和8年版
    昭和7年8月23日飛行各務ヶ原の飛行第一連隊の九一式戦闘機6機編隊、土浦まで往復900kmの長距離飛行を決行。
    7時50分発で、途中、立川、所沢に着陸、正午に無事霞ヶ浦に到着。給油のうえ、午後1時半、帰路に着く。
    航空年鑑 昭和8年版
    昭和7年10月6日飛行八日市の飛行第三連隊の新藤中尉、高度9,000mへ上昇し、自ら今夏に達成した8,500mの記録を破る。高度8,000mまでは離陸後28分で到達するも、その後の1,000mを約40分かけて上昇。
    「8,000m以上になると、普段使用している鉱油グリスは氷結して用をなさず、方向舵が動かなくなって困った。今度は上質の時計油を使用せねばならぬと思った。酸素吸入器も十分でないので、目が眩むことが度々あった。」と中尉は語った。
    日本陸軍制式機大鑑では7日だが、大阪朝日新聞滋賀版では6日
    昭和7年10月27日飛行八日市の飛行第三連隊の新藤中尉、湖東上空で特殊飛行無設備による背面飛行9分50の航空界の新記録を作る。航空年鑑 昭和8年版
    昭和7年11月7日事故午前11時30分、立川陸軍航空本部技術部の九一式戦闘機(106号)を操縦の技師吉田修作氏、性能試験中に発動機が故障しきりもみ降下。飛行場西北方の山林に墜落、大破。操縦者は重症を負う。
    (東京日日新聞(東京府下版)昭和7年11月8日付に、墜落現場写真あり)
    航空年鑑 昭和8年版、東京日日新聞(東京府下版)昭和7年11月8日付
    昭和7年11月配備飛行第五連隊の2個中隊に、九一式戦闘機の配備が決定と言う記事。(新聞記事に122号機の写真掲載)
    但し、陸軍航空統計を見る限り、飛五への配備は昭和8年度中。
    東京日日新聞(東京府下版)昭和7年11月18日付
        
    昭和8年1月7日飛行明野陸軍飛行学校の空中分列式は新様式により徳川校長先ず九一式戦闘機で滑走の閲兵を賜り、ついで直ちに離陸、精鋭33機の空中分列式を行った。航空時代 昭和8年2月号
    昭和8年1月9日事故関東軍飛行第○大隊、沓掛節雄少尉操縦の九一式戦闘機(137号、愛国29「北海道」号)は、巴彦周辺の匪賊威嚇のため出動し、その帰還中に天候険悪・視度不良により僚機(古寺 巽軍曹操縦の愛国「満洲」号)と衝突。両者殉職。航空時代 昭和8年11月号
    昭和8年5月4日飛行昭和天皇、立川の航空本部技術本部に行幸。
    約1時間の飛行演習展覧の演目の2番目「特殊飛行」(九一戦4機、甲式四型1機)、演目4番目「空中戦闘」(九一戦6機、九二戦3機、九二偵2機)、演目5番目「対地攻撃」(八八偵2機、九一戦3機)などがある。
     九一戦の操縦者に横山八男航空中尉、加藤建夫航空中尉、梼原秀見航空中尉などが見られる。
    陸軍航空史 黎明期〜昭和12年
    昭和8年6月6日事故飛行第一連隊第四中隊付の附柴軍曹操縦の九一式戦闘機(167号)は、中隊長斎藤大尉と各務ヶ原飛行場上空で訓練中、発動機離脱により機体はキリモミとなり墜落。軍曹は落下傘降下するも、低空だったため開花しきれずに殉職。航空殉職録
    昭和8年6月23日配備8月の飛行第三連隊(八日市)との戦闘機中隊入れ替えに先立ち、立川飛行第五連隊に九一戦配備。幹部教育始まる。新聞記事写真では256号機。東京日日新聞(東京府下版)昭和8年6月24日付
    昭和8年6月試験試験用として、関東軍に「九一式戦闘機用金属プロペラ×30」が交付される。陸満密340号
    昭和8年6月試作寿5型(減速機付きの寿2型)装備の性能向上型、試作される。日本航空機総集
    昭和8年6月8日事故奉天野戦航空廠において、九一戦(愛国73号)が試験飛行中、発動機が離脱し墜落、大破。関東軍から中央の処置を求める電報が打たれる。
     副官から関東軍参謀長宛てにすぐさま電報が打たれ、
  • 発動機架及びプロペラはなるべく速やかに改修、交換する(時期は追って通牒する)
  • 当分の間、試験用として送った金属プロペラは性能向上のため研究の余地あるも差し当たり使用する、または従来のまま使用する場合には、十分に点検する

  • 陸満普1043号
    昭和8年6月30日飛行 八日市の飛行第三連隊の九一式5機編隊は、中重中尉指揮下、一気に館山まで飛行、更に太平洋上420kmを迂回して帰還。航空時代
    昭和9年1月号
    昭和8年7月24日配備飛行第三連隊の九一戦、立川に飛来。新聞記事写真では、5〜6機以上が見える。東京日日新聞(東京府下版)昭和8年7月25日付
    昭和8年8月1日改変飛行第三連隊(八日市)の戦闘機2個中隊と、飛行第五連隊(立川)の偵察機中隊、装備改変、入れ替え。東京日日新聞(東京府下版)昭和8年8月1日付
    昭和8年9月5日改変飛行第五連隊の第一次検閲はじまる。新聞記事写真では方向舵を色塗しているのが見える。東京日日新聞(東京府下版)昭和8年9月6日付
    昭和8年9月18日事故立川飛行第五連隊の九一式戦闘機3機は松村大尉指揮下に羅針盤による夜間飛行を実施すべく午後3時立川発、同5時浜松飛行場へ着陸、午後7時プロペラ折損の松村機を残し鶴義広中尉と谷口善七曹長操縦の2機が編隊で浜松発帰還飛行中密雲のため進路を誤り赤石山脈中の小芋山に衝突、両氏とも殉職した。(22日、立川にて法要)航空時代 昭和8年11月号
    昭和8年9月27日事故立川飛行第五連隊第四中隊福山米助曹長の九一式戦闘機(211号)が、3機編隊から離脱しようと上昇した際、突然、発動機が脱落。機は水平ブリルの状態に陥り、飛行場西2kmの日本電力高圧線に触れ発火しつつ昭和村福島の桑畑に墜落。同曹長は落下傘で無事を得た。航空時代 昭和8年11月号
    東京日日新聞(東京府下版)昭和8年9月28日
    昭和8年11月1日飛行編隊空中航法研究のため、下志津飛行学校阿部中尉他4名操縦の九一式戦闘機5機は、下志津を午前7時50分に発し、八日市、広島を経由して、午後5時10分、太刀洗に到着。航空時代 昭和9年1月号
    昭和8年12月2日事故明野飛行学校学生の原少尉(各務ヶ原飛行連隊)は、九一式戦闘機(108号)を操縦し戦闘訓練中、機関に故障を生じ、三重県大淀町の桑畑に不時着しようとして転覆、機体小破。少尉は無事。航空時代 昭和9年2月号
    昭和8年12月7〜8日飛行 各務ヶ原の飛行第一連隊第一中隊の九一式戦闘機7機を以って長距離飛行。第一日めは、第一編隊に斉藤大尉、坂川中尉、酒井曹長、荻谷軍曹、第二編隊に古河中尉、高原少尉、下方軍曹。午前6時15分に離陸し、7時50分に立川に着。航空時代 昭和9年3月号
    昭和8年12月12日飛行 各務ヶ原の飛行第一連隊第二中隊の岡本中隊長以下九一式戦5機は、午前7時10分に各務ヶ原を出発し、下志津に向かった。航空時代 昭和9年3月号
    昭和8年12月13日飛行
    事故
     各務ヶ原の飛行第一連隊第二中隊の三倉中尉を編隊長とする以下九一式戦4機(宇井特務曹長、井野曹長、内藤軍曹)は、午前7時17分に各務ヶ原を出発。午前8時10分頃千葉橋下の海上を飛行中、井野曹長操縦の159号機は発動機を故障し、千葉市登戸海岸沖合いに不時着水。機体は大破したが、曹長は無事。航空時代 昭和9年3月号
        
    昭和9年1月23日飛行立川飛行第五連隊の高橋中尉を編隊長とする九一戦3機編隊は、午前9時に立川を発ち、同11時22分に大阪に着。午後1時に大阪を発ち、2時9分、立川着。機の時速250km/h、これに風速が110km/h加わり、対地速度360km/hで立川−大阪間420kmを1時間9分で飛行し、超快速記録を作る。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年1月24日飛行立川飛行第五連隊第四中隊の松村大尉指揮の下九一戦3機で午前8時57分に立川を発ち、9時15分に館山着、9時37分館山を発ち八丈島往復500kmの長距離飛行。往航は追い風を利用するために高度を5,000mにとったこのこと。午後0時55分館山に帰還し、午後1時57分に帰還。東京日日新聞(東京府下版)昭和9年1月25日付、航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年1月25日飛行各務ヶ原の飛行第一、第二両連隊では平壌、新義州を根拠地として耐寒飛行を行うべく、先発の第一連隊九一戦9機は午前7時出発。途中、広島に着陸、午後4時15分、太刀洗に着。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年1月26日飛行午前9時55分、太刀洗を出発した各務ヶ原の飛行第一連隊徳永大尉指揮の九一戦3機は、うち1機が玄海灘上空で故障を生じたため、3機で太刀洗に引き返し、故障機を残して2機は平壌に向かう。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年1月28日飛行午後5時45分、平壌着の各務ヶ原の飛行第一連隊の九一戦5機は、27日蔚山に不時着した僚機2機を加え、平壌を中心に耐寒訓練飛行を行う。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年2月1日飛行平壌、新義州を根拠地として耐寒飛行演習実施の第一連隊九一戦8機は、午前8時30分、櫻井中尉を先頭に平壌飛行場を出発、途中、京城、蔚山に着陸し、午後3時15分から4時30分の間に太刀洗に着陸、一泊。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年2月4日飛行明野−平壌間の長距離耐寒飛行のため、明野陸軍飛行学校の18機(九一戦9機、八八偵察9機)のうち、三輪大尉指揮の九一戦編隊は、午前5時40軍頃、明野を出発、広島、蔚山、京城で給油したが、午後6時20分、京畿道長湍郡津南方面に不時着し、脚を破損。他の2機は、平安南道中和郡中和付近に不時着。残る15機は、午後4時40分から5時20分の間に平壌に着陸。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年2月6日飛行帰還のため午前9時に九一戦9機(八八偵8機は午前11時)に平壌を出発。途中、京城、蔚山にて射撃演習を実施し、太刀洗に向かう。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年2月16日事故各務ヶ原飛行第一連隊付きの浅井弘少尉操縦の九一式戦は、八日市第三連隊との連合演習において、第三連隊の八八式偵察機と空中衝突し、愛知県丹羽郡扶桑村に墜落し、殉職。(毎日PhotoBankの写真解説が誤りでなければ、墜落した九一戦は188号)航空殉職録
    航空年鑑  昭和10年版
    毎日PhotoBank
    昭和9年2月22日飛行立川飛行第五連隊は、九一戦10機を動員し、中重大尉以下の5機は午前6時15分前後して出発、午後3時太刀洗着。第二陣、松村大尉以下の5機は午前9時5分出発、午後4時太刀洗に着。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年2月23日事故帰還のため、松村大尉以下の5機は午前8時55分に太刀洗を発、善通寺、明野を経て午後2時47分、立川に着。松村大尉以下の5機も午前10時10分、太刀洗を立ち帰路に着いたが、斉藤軍曹操縦の九一式戦闘機(257号)は、午前11時10分、山口県祝島上空にて発動機停止により、不時着。駆けつけた民間人により救出され、感謝状が下付けられる。残り4機は無事に午後5時、立川に着。陸軍資料
    航空年鑑  昭和10年版
    東京日日新聞(東京府下版)昭和9年2月24日
    昭和9年3月1日事故下志津飛行学校の内鮮往復飛行の九一式戦闘機(3機)、八八式偵察機(6機)は、八八式偵察機が1機燃料不足で不時着したが、戦闘機隊は無事に平壌に着。航空時代 昭和9年5月号
    昭和9年3月1日事故各務ヶ原飛行第一連隊佐々木曹長操縦の九一式戦闘機は、岐阜県川島村上空で発動機故障を生じ、同村木曽川河畔に不時着、機体を損傷し、曹長は軽症を負った。航空時代 昭和9年5月号
    昭和9年3月2日下付陸軍技術本部における射出研究用として、九二戦4機とともに、九一戦3機の下し付け申請(航甲第五四号)が、認可される。昭和9年 陸普第一三八三号
    昭和9年3月5日飛行各務ヶ原第一連隊岡本大尉指揮の九一式戦闘機9機は、午前7時に各務ヶ原を出発し、金沢、日本アルプスを経て午前8時に立川へ着。給油後、午前9時に立川を発ち、伊豆半島より海洋を突っ切り浜松へ至り、更に八日市に至る1,200kmの飛行を実施した。航空時代 昭和9年5月号
    航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年3月5日飛行飛行第五連隊の明野飛行場における戦闘演習が、10日まで実施。
    中重大尉を編隊長とする九一戦4機と乙式偵察機1機、松村大尉を長とする九一戦5機、乙式偵察機1機は、午前9時50分から10時までに立川を出発、明野に向かう。"
    航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年3月7日事故飛行第一、第三、第七の連隊連合戦闘爆撃演習中、飛行第一連隊第四中隊の佐藤辰男中尉は、午前6時20分、九一式戦闘機を操縦中に給油パイプを生じ、三方ヶ原飛行場に不時着の際に転覆、機体を大破し、中尉は重傷を負った。航空時代 昭和9年5月号
    航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年3月18日飛行13日から17日まで岐阜県下で行われていた戦闘連合演習に参加していた立川飛行第五連隊の九一戦8機は、午前9時13分に八日市を発ち、10時25分立川に着。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年3月30日事故午後0時40分頃、各務ヶ原飛行第一連隊第二中隊の九一式戦闘機(193号、伊藤伸軍曹操縦)は、高等飛行練習中に発動機故障を生じ、岐阜県鵜沼村先の畑中に墜落し、大破、操縦者は落下傘で無事。航空時代 昭和9年5月号
    昭和9年4月9日事故下志津陸軍飛行学校教導隊付きの壇上春雄軍曹、野外航法演習のため九一式戦闘機を操縦して明野に向かう途中、芦ノ湖東北側の神山に墜落、殉職。航空殉職録
    昭和9年4月10日事故4月9日、下志津より明野への飛行中に箱根上空で行方不明となった下志津陸軍飛行学校壇上春雄操縦の九一式戦闘機(546号)は、10日、元箱根村北方約1里九頭龍神社付近の谷間に墜落、機体は大破、操縦者は殉職しているのが発見された。航空時代 昭和9年6月号
    昭和9年4月14日飛行
    事故
    立川飛行第五連隊の八八式偵察機、九一式戦闘機(第三中隊指揮:中重大尉、第四中隊指揮:松村大尉、各5機づつ)各10機による、立川−平壌間往復3,500km編隊飛行において、往路の愛知県伊良湖岬陸軍射撃演習場付近に午前6時20分頃、第四中隊の浦中直市中尉操縦の九一式戦(210号)が不時着、機体は大破したが中尉は無事。残り9機は午後5時前に京城へ、八八式偵察機9機(こちらも1機が不時着)が午後5時頃に平壌に到着。航空時代 昭和9年6月号
    昭和9年4月15日飛行
    事故
    京城に到着した戦闘機2個中隊5機は午前7時30分頃と午前8時に相次いで出発、帰還の途に着いたが、第三中隊斎藤隆夫軍曹操縦の九一式戦闘機(535号)は奈良県内牧村付近の山中に墜落、軍曹は落下傘で無事。残機は無事立川に着陸。航空時代 昭和9年6月号
    昭和9年5月16日飛行立川飛行第五連隊第四中隊松村大尉の指揮の九一式戦闘機5機は、立川−富山間往復450kmの単機野外航法訓練のため、午前8時から8時50分の間に順次離陸、午後2時から3時の間に立川に帰還した。航空時代 昭和9年7月号
    昭和9年5月16日飛行太刀洗飛行第四連隊深牧曹長は、九一戦を操縦、高度飛行を実施。高度計の最高示度9,500mに達し、更に上昇、殆ど10,000m近くの記録を作る。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年5月24日飛行下志津陸軍飛行学校では竹内大尉式の八八式偵察機2機、安部中尉指揮の九一式戦闘機の4機で下志津−鹿屋間飛行演習を行い、午前4時に下志津を出発、戦闘機は各務ヶ原、広島を経由して鹿屋に向かった。航空時代 昭和9年7月号
    昭和9年5月30日事故下志津陸軍飛行学校の柿添曹長操縦の九一式戦闘機は、午後1時頃、千葉県西岬村上空で訓練飛行中に発動機故障を生じ、同村先の海岸に不時着。機体は大破したが、同曹長は無事。航空時代 昭和9年7月号
    昭和9年6月18日下付け所沢飛行学校へ教育用参考品としての下し付け申請(九一戦123号、航甲第一二五号)が、認可される。昭和9年 陸普第三七六五号
    昭和9年6月26日改修航秘第四一九号として、九一戦構造要領改修の件、上申。昭和9年 陸普第四八一五号
    昭和9年6月試作二型の初号機、完成。日本航空機総集
    昭和9年7月飛行三編隊による、日本一周飛行。日本飛行機100選
    昭和9年7月15日飛行三重県四日市上空にて行われる明野陸軍飛行学校長統監の戦闘爆撃連合演習に参加するため、立川の飛行第五連隊の難波少佐指揮の九一戦11機は、午前11時半に出発、各務ヶ原飛行場に向かう。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年7月31日事故所沢飛行学校の岡村大尉操縦の九一式戦闘機は、午後1時頃、神奈川県足柄上郡清水村谷峨山頂の箱根4号水道付近に墜落、同大尉は殉職。航空時代 昭和9年10月号
    航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年8月16日飛行関東一周飛行のため、立川に向け出発した各務ヶ原飛行第一連隊の九一式戦闘機6機は、天候不良のため、名古屋本地が原飛行場に不時着。航空時代 昭和9年11月号
    昭和9年8月20日飛行立川飛行第五連隊の高橋大尉以下の九一戦5機による立川−旭川間野外航法演習は、午前8時立川を発、途中に青森にて給油、午後2時旭川に到着。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年8月21日飛行立川飛行第五連隊の高橋大尉以下の九一戦5機による立川−旭川間野外航法演習は、午前8時50分に旭川を発ち、青森で給油した後、午後時に立川に着。航空年鑑  昭和10年版
    昭和9年8月27日改修航秘第五三六号として、九一戦(一型)50機を(二型)に改修の申請。
    これを受けて、同年4月に調達された以下が数量変更。
  • ジュ式450馬力発動機 62→20
  • 九四式450馬力発動機   42(追加)
  • 昭和9年 陸普第五三〇九号
    昭和9年9月改変飛行第十一大隊を、昭和10年3月までに九二式戦から九一戦(1型)に機種改変開始。定数は28機。昭和9年8月 陸密第996号
    昭和9年9月4日飛行所沢飛行学校所属の九一戦4機と八八偵1機は、明野飛行学校で行われる射撃演習参加のため出発。航空殉職録 陸軍篇
    昭和9年9月4日事故下志津飛行学校所属の戦闘機(504号)は、午後1時頃、飛行場への着陸の際目測を誤り、地上に激突転覆、搭乗者片岡軍曹は軽傷を負った。航空時代 昭和9年11月号
    昭和9年9月6日改造8月27日付け航密第五三六号にて申請のあった二型改修が認められる。航空本部の申請では50機だったが、20機に調達数が減らされる。改修費は320,000円。昭和9年 陸密 第九九四号
    昭和9年9月13日事故青森飛行場で演習中の下志津飛行学校高橋曹長操縦の九一式戦闘機(549号)は、午前8時35分頃、着陸の際転倒、両翼を真っ二つに破損し、高橋曹長は重傷を負った。航空時代 昭和9年11月号
    昭和9年10月1日事故午前11時50分頃、立川の飛行第五連隊第三中隊中隊長中重長吉大尉操縦の九一式戦闘機は、演習中、埼玉県入間郡三ケ島村上空にて発動機故障を生じ、村山貯水池付近に墜落。大尉は落下傘降下により無事。航空時代 昭和9年12月号
    昭和9年10月18日飛行18日より明野で行われる実弾射撃演習に、飛行第五連隊より九一式戦×7機(他に八八式偵察×1機)が参加。指揮官に中重大尉(佐藤中尉)、高橋大尉、荒薪中尉、木村中尉、安西少尉(加藤曹長)、岡野曹長(斉藤曹長)、芳澤軍曹(華房軍曹)。(括弧内は復航)東京日日新聞(東京府下版)昭和9年10月14日
    昭和9年10月26日事故立川飛行第五連隊の編隊宮中線演習を実施。午後3時28分、東京都多摩郡小宮村上空1,700mにおいて、木村清中尉編隊が荒蒔注記編隊機を攻撃しようとした際、木村機が右旋回、後続する岡野真一曹長機の尾部に接触、岡野機は錐揉みとなって墜落・粉砕。曹長は落下傘で降下し、軽傷で済む。中尉機は空中の自由を失いつつも、空中滑走で立川に帰還。航空年鑑  昭和10年版
        
    昭和10年1月23日飛行明野−太刀洗間の長距離移動演習において、午前8時、明野陸軍飛行学校の松村大尉指揮の九一式戦12機が出発。続いて、湊少佐指揮の八八式偵7機も出発。広島で給油し、太刀洗上空で飛行第四連隊の20機と空中戦を演ず。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年1月26日飛行立川飛行場、石川島飛行機製造所へお成りの東久邇宮彰常王殿下、午前11時50分、飛行第五連隊の第三中隊の佐藤、荒薪両中尉、梅川曹長による九一式戦闘機の連続アクロバシーの妙技を台覧。(宙返りを2回、反転、横転、背面を続けて弾丸のようなビッケに移り、直ちに上昇しつつ反転、更に横すべりから傾斜飛行、最後に低速の全速飛行)東京日日新聞(東京府下版)昭和10年1月27日
    昭和10年1月27日飛行明野陸軍飛行学校及び太刀洗飛行第四連隊との連合空中演習のため、所沢飛行学校の武田中佐指揮の八八式偵7機と九一戦9機は午前中に所沢を出発、午後1時25分、明野に到着。明野機15機と空中戦闘を実施。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年1月24日飛行立川飛行第五連隊の3機編隊による、立川〜八丈島間往復飛行。日本陸軍制式機大鑑
    昭和10年1月28日飛行上記の所沢飛行学校の一行は明野を午前8時に出発し、太刀洗に向かう。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年3月10日飛行日露戦役三十周年を記念し、明野飛行学校の八八式偵と九一式戦の計37機が春田好調指揮により、伊勢湾一周の第飛行を実施。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年3月18日飛行明野、浜松の両陸軍飛行学校と、各務ヶ原の第一、第二の両飛行連隊の連合演習が開催。(21日まで)
    明野の新藤中尉指揮の九一式戦9機、三島中尉指揮の八八式偵6機は、浜松飛校の軽爆7機と戦闘を開始。"
    航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年4月24日飛行博多湾で演習中の太刀洗飛行第四連隊の松本中尉は、九一式戦で300m隔てた標的に命中の記録を作る。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年4月29日飛行代々木に於ける天長節観兵式の空中分列式に、大江中将指揮の合計70機(所沢飛校、下志津飛校、飛行第五連隊(八八式偵察、九一式戦闘機))が参加。
    午前9時半に立川上空で隊形を整え、定刻の10時5分に高度300mにて、8編隊を以って会場上空に進入。10時20分、それぞれの飛行場に帰還。
    東京日日新聞(東京府下版)昭和10年4月30日
    昭和10年5月15日飛行所沢飛行学校の立山大尉指揮の新偵察機3機、九一式戦2機は、所沢−札幌間野外航法訓練のため、午前9時40分、所沢を発つ。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年5月22日下付所沢飛行学校へ教育用参考品としての下し付け申請(九一戦2型、九四式450馬力発動機、各1、航甲第八九号)が、認可される。昭和10年 陸普第二八九一号
    昭和10年6月3日飛行各務ヶ原の飛行第一連隊では、単独並びに編隊による移動訓練飛行を実施。午前同隊を出発の吉田大尉指揮の九一式戦闘機6機は飛行第二連隊をはじめ、第三、第四、第五、第七の各連隊、下志津気球隊、明野陸軍飛行学校などを戦闘、偵察、爆撃の各分科に亘り、戦闘機能訓練の遍歴をなして15日まで続く。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年6月5日飛行午前8時35分、八日市飛行場上空において飛行第三連隊所属の八八式偵察機と空中戦闘演習中の、各務ヶ原第一連隊の酒井勇特務曹長操縦の九一式戦闘機は空中で火災を起こし、同飛行場東北の民家に墜落、全焼させる。特務曹長は落下傘降下で無事。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年7月6日飛行東京、横浜、川崎の3都市防空演習に参加のため、飛行第五連隊の九一式戦3機は、予定されていた八八式偵察機に代わって急遽飛行。東京日日新聞(東京府下版)昭和10年7月6日
    昭和10年7月21日飛行飛行第五連隊機による北海道飛行。
    第一中隊長 田中大尉指揮の八八式偵察機4機、第二中隊長 福沢大尉指揮の八八式偵察機4機、第三中隊長 原田大尉指揮の九一式戦闘機4機で、偵察機は立川−札幌間の直行。戦闘機は、立川−仙台、青森(着陸給油)−札幌。
    東京日日新聞(東京府下版)昭和10年7月20日
    昭和10年7月23日飛行所沢陸軍飛行学校の日本一周飛行は、午前6時に所沢を出発した八八式偵察機3機と九一式戦闘機3機は、午前8時半に仙台上空を通過したが、天候不良により一関付近から引き返して仙台に着陸。天候回復を待って、九一式戦闘機3機は午後2時20分に仙台を出発、途中に能代で燃料を補給し、午後6時半に富山飛行場に着陸。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年7月24日飛行上記一行は富山飛行場を午前中に出発、太刀洗を経て帰還の途中、箱根山で雷雨に包まれ佐々木琴治曹長操縦機は午後7時5分に三島練兵場に不時着。その際、車輪をひっかけて転覆大破。同曹長は軽傷。他の2機は、午後7時20分に所沢に着陸。航空年鑑 昭和11年版
    昭和10年8月23日事故立川飛行第五連隊第三中隊付斎藤利三郎軍曹は、午後2時頃九一式戦闘機(310号)を操縦、村山貯水池上空にて訓練飛行中機体に故障を生じ、約5,000メートルの上空よりま逆さまに貯水池東方180メートルの府下東村山村字清水の小高い丘に墜落機体は大破、同軍曹は東村山村字野々の江戸街道に落下傘にて降下の際電信に掛かり重傷を負った。東京日日新聞(東京府下版)昭和10年8月25日
    航空時代 昭和10年10号
    昭和10年9月貸渡中華民国広西省に8機の2型が貸渡される。(#230,369,370,372〜376)
    昭和14年9月、支那事変のため回収不能となって、返還免除さる。
    昭和14年9月 陸密第1472号
        
    昭和11年1月6日飛行徳川好敏中将の空中指揮により、所沢飛校、下志津飛学、飛行第五連隊各機(総勢73機)による空中分列式の予行。飛第五連隊からは近藤(三)少佐指揮の九一戦13機が参加。総指揮官の徳川中将は、双発軽爆に搭乗。東京日日新聞(東京府下版)昭和11年1月5日
    昭和11年1月22〜31日飛行飛行第一連隊による高緯度地方及び酷寒季の航法訓練(満洲後方訓練)。第一〜三中隊から3機づつ、計9機。昭和10年12月 陸普第7367号
    昭和11年2月6日事故昭和11年2月20日、午前8時10分頃より格納庫前において発動機余熱をはじめ、その終了後の8時50分から発動機試運転の際、プロペラ数回転後に「ポン」という異音とともに逆転し気化器に引火、消火拳銃にて消化。
    第一、第二円框体間「ジュラルミン」板焼損、中央翼羽布焼損。総使用時間130時間43分。
    飛行第十一連隊長名の兵器毀損理由書には「九一式戦闘機機体一型」とあるが、写真には金属プロペラがついている。回転方向が木製プロペラと同じに見えるため、1型の金属製プロペラ装着機か。
    昭和11年9月 陸満密第2004号
    昭和11年5月1日事故午前11:40頃、立川第五連隊第四中隊の本村中尉操縦の九一戦(553号)は、演習中に梅津少尉の九一戦と空中衝突。梅津少尉機(536号)は水田に墜落、少尉は重傷。本村中尉機は畑に墜落するも、中尉は落下傘降下で無事。東京日日新聞(東京府下版)昭和11年5月2日
    航空時代 昭和11年7月号
    昭和11年5月14日事故午後9:30頃、各務原第一連隊の粟田少尉の九一戦は夜間演習中、機体故障により墜落、少尉は重傷を負う。航空時代 昭和11年10月号
    昭和11年6月25日飛行浜松第七飛行連隊の九三式重爆(6機)と、立川の飛行第五連隊の九一式戦闘機(10数余機)は、午後2時より立川飛行場上空で連合演習を実施東京日日新聞(東京府下版)昭和11年6月26日付
    昭和11年7月1日飛行立川の飛行第五連隊の九一式戦闘機14機による東西日本各地連絡飛行が決行。新聞に掲載された計画は、以下。
    第三中隊計画
     第1日 立川、仙台、青森、新潟
     第2日 新潟、直江津、高崎、立川、三崎、館山、銚子、立川、桐生、水戸、立川、(雨天時は逆コース)
     ・570号 原田大尉
     ・271号 中川中尉
     ・184号 山内曹長
     ・163号 中村上等兵
     ・566号 高橋特務曹長
     ・109号 斉藤軍曹
     ・304号 川井上等兵(復航は泊大尉)

    第四中隊計画
     第1日 立川、八日市、広島、大村
     第2日 大村で演習
     第3日 大村、松山、広島、明野、立川、館山、水戸、立川
     ・334号 竹村大尉(佐藤大尉)
     ・547号 梅川曹長(福山少尉)
     ・209号 熊谷伍長
     ・177号 松井軍曹
     ・183号 本村中尉(竹村中尉)
     ・509号 千葉曹長(本村中尉)
     ・158号 須藤上等兵

     新聞記事中の三中隊の写真では、尾翼を赤系の色で塗り、白の番号を入れている。(番号は中隊の番号ではなく、中隊内での番号の模様)
      ・163   3
      ・番号不明 2
     参加者中の3名の上等兵は、第一回少年航空兵とのこと。
    東京日日新聞(東京府下版)昭和11年7月1〜4日付
    昭和11年7月2日飛行三中隊は新潟に安着するも、四中隊は大阪に泊。東京日日新聞(東京府下版)昭和11年7月1〜4日付
    昭和11年7月3日飛行あいにくの天候により、三中隊は新潟を出発したものの、途中、霞ヶ浦に不時着。最後のコースを飛んで帰還。四中隊は、大阪を発ち、各務ヶ原から上田に。東京日日新聞(東京府下版)昭和11年7月1〜4日付
    昭和11年12月14日事故立川飛行第五連隊第四中隊松井孝軍曹は午前10時半、九一式戦闘機(570号)を操縦、訓練飛行を終わって着陸せんとした際、突風に煽られて飛行場南端航空神社の北側に転覆し逆立ち、エンジンカバーを若干いためたが軍曹は無事。新聞の掲載写真では、方向舵と昇降舵が塗色されている。東京日日新聞(東京府下版)昭和11年12月15日付
    航空時代 昭和12年2月号
    昭和11年12月16日事故明野太刀洗間飛行演習のため去る14日の朝に明野を出発、同日太刀洗に到着した九一式戦闘機は、本日朝太刀洗を出発明野に向け帰還の途中、大阪方面で行方不明となった。17日、行方不明の明野陸軍飛行学校助教官林曹長機は、三重県一志郡八幡村の山林内に墜落していることが発見され、林曹長は殉職。航空時代 昭和12年2月号
    昭和11年12月23日事故午前10時15分頃、各務原飛行第一連隊所属の飛行中尉蕃健博氏は九一式戦闘機を操縦して特殊飛行訓練中発動機に故障を生じ、愛知県丹羽郡古知野町の桑畑に墜落、機首を突っ込み機を大破、蕃中尉は重傷した。航空時代 昭和12年2月号
        
    昭和12年1月7日飛行翌8日の陸軍始観兵式に先立ちって予行。飛行第五連隊のほか、所沢、下志津、熊谷の飛行学校機合わせ計61機、総指揮官は、徳川好敏航空兵団長。東京日日新聞(東京府下版)昭和12年1月7日付
    昭和12年5月事故第五連隊第一中隊機、田中林平軍曹機(184号)、明野飛行場近辺にて着陸時、事故。大破。『翼よ 雲よ 戦友よ』