(1)生産機数 九一戦の生産機数は、今ひとつ、はっきりとしません。 中島での下記(合計350機)に加え、 石川島が101機を転換製造(昭和7年9月〜昭和9年3月)の合計451機程度と市販書籍にはありますが、まだ確認できる資料を見つけ出せていません。加えて、二型は新規生産ではなく改造ですので、これを生産機数に含めると、その分が重複することになり、機数としてはその分が減るはずです。 機体番号では、試作第1号機の101から、599号や写真で確認できる最大番号579号(昭和8年11月製造、愛国93「福岡市」号)があり、連番だとすると499機とになり、数が合いません。愛国号の継承報告に、601号へ継承という記事もあります。 機体リストでは400番台後半の機体を見つけ出せていないのでこの当たりに欠番号があるのか、あるいは、生産機数がもっと多かったのか。今後明らかにしていきたい点です。 右上表は『富士重工社史三十年史』(昭和59年)にある、昭和5〜10年の中島での生産機数です。 昭和7〜8年分が全部を九一戦としても296機です。昭和6年や9年の生産分には甲式四型(昭和7年まで)や九四偵も含まれているであろうことから、中島で320機というのはかなりギリギリな線に思えます。 |
また、米国側には次の数値がありますが、上表とはかなり数値が異なっています。昭和一桁台では海軍機が欠損しているようにも見え、年次も「年」なのか「年度」かも不明です。
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(2)二型の謎 二型の正確な機数も、明確ではありません。 これは新規製造でなく改造によることが大きいのではないでしょうか。 20機が昭和9年4月に調弁されており、8月の航空本部では50機が改修予定されていたのですが、その後が追跡できていません。当時は1個中隊装備機数が9機なので、この機数では、飛行学校や整備学校などの分をあわせると、1個中隊分が精一杯だったはずです。 機数が少ない理由もよく分かりません。 昭和9年4月には二型×20機が調弁されていることから、一般に言われている九五式戦闘機(昭和10年3月試作機完成)がいたからという理由もなさそうです。 軍資料(昭和9年6月)では「性能ノ向上相当大ニシテ操縦性能モ大差ナク、改修ハ改修ハ発動機架ノ交換ニヨリ発動機ノ換装スルノミニテ、機体ニ何等改修ヲ実施スル要ナシ。故ニ整備機ノ性能向上ニ適スルモノト認ム。」(句読点等筆者挿入)としており、何か、別の思惑から機数が留まったようです。 そもそも、何故改造するのかが、今ひとつはっきりとしません。 改造後に余剰となる「ジュ式」発動機は、九三双軽爆に回すことが、陸軍資料に見ることはできるのですが・・・。 二型となった機体は、次が判明しています。 |
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(3)二型の発動機は何か 昭和9年6月22日付の航密第四一九号「九一式戦闘機構造要領改正の件上申」から、二型の発動機は「九四式四五〇馬力」と分ります。 「発動機ハ九四式四五〇馬力発動機ニシテ、昭和八年十一月減速式トシテ所定ノ型式試験ヲ終了セルモ尚震動ヲ極度ニ減少スル為直結式ニ改修シ昭和九年三月其ノ審査ヲ完了セルモノナリ」 |
市販書籍の多くは二型の発動機を「寿2型」としていますが、「寿2型」は減速機は有しておらず緒元も一致しない点が多いことから、何だろうと思っていました。ある時、安藤成雄氏の著作『日本陸軍機の計画物語』の中で、「九四式450馬力は、寿5型」としている記述を見つけました。 完全には一致していませんが、寿2型よりは数値が近いです。 尚、他の陸軍資料では「九四式四五〇馬力(二型)」の記載もあり、上記の発動機とは異なるのかもしれません。 |
名称 | 九一戦(二型)用 | 候補 | 九一戦(一型)用 | |||
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九四式四五〇馬力 | 寿5型 | 寿2型 | ジュピターZ | ジュ式450 馬力 | ||
気筒数 | 九 | 9 | 9 | 9 | 9 | |
気筒中径(mm) | 一四六 | 146 | 146 | 146 | 146 | |
衝 程(mm) | 一六〇 | 160 | 160 | 190 | 190 | |
全気筒容積(l) | 二四、一 | 24.1 | 24.1 | 28.7 | 28.7 | |
圧縮比 | 五、三 | 5.5 | 5.3 | 5.3 | 5.3 | |
正規回転数(回/分) | 二二〇〇 | 2200 | 2100 | 1775 | 1775 | |
正規与圧力(g/m2) | 〇 (注 ママ) | -0.0035 | ||||
地上正規馬力 | 約四四〇 | 440 | 460 | 420 | 440 | |
正規高度馬力 | 四〇〇〇米ニテ 約四九五 | 465 | 2750mにて480 | |||
最大回転数(回/分) | 二四〇〇 | 1950 | 1950 | |||
最大与圧力(g/m2) | 一〇〇 | 70 | ||||
地上最大馬力 | 約五二〇 | 540 | ||||
最大高度馬力 | 三六〇〇米ニテ 約五九〇 | 2450mにて570 | ||||
燃料消費率(g/馬力/時) 特殊揮発油にて | 二四〇乃至二五〇 | 240〜250 | ||||
重量(乾燥状態)(kg) | 約三六〇 | 385 | 363 | 410(プロペラボス金具、燃料ポンプ含む) | ||
減速比 | 〇、八六六 | 0.761 | 直結 | 直結 | 直結 | |
回転方向 | 後方から見て、左回転 | |||||
(出典) | 航密第四一九号 | 『中島飛行機エンジン史』 | 「ジュ」式四五〇馬力発動機(一型)仮説明書 |
(4)プロペラの怪 プロペラについて、新しいことが分ってきました。 まだまだ、知られていないことが多そうです。 昭和7〜8年の資料では、プロペラは単に「九一式戦闘機用プロペラ」という記載で、木製とも注記はありません。 が、昭和8年6月の資料(陸満密340号)に、試験用として関東軍に交付する品目の中に、「九一式戦闘機用金属プロペラ×30」というものがあります。この時期の九一戦に金属プロペラが用意されていたことは、初めて知りました。 このプロペラを追いかけるように同年6月8日、奉天野戦航空廠において九一戦(愛国73号)が試験飛行中に発動機が離脱し墜落する事故が起こります。この事故を重く見た関東軍はすぐさまの電報にて、「中央部の配慮を煩わしたし」と対応を求めています。(陸満普1043号) 原因までは資料に記載ありませんが、副官から関東軍参謀長宛てにすぐさま電報が打たれています。中には とあります。試験用として送ったのは確かなようです。 その後を探したところ、昭和10年4月の資料(陸満密117号)に「九一式戦闘機(一型)用プロペラ(分離式)」というを見つけました。木製プロペラで分離式というのは考えにくいため、金属製と考えるのが素直でしょう。328号機に装置されているものが該当するのかもしれません。 ただし同じ資料中に、交付される九一式戦闘機に「プロペラ被包式乙型を装備するものとする」と注記があります。注記あるというのは、木製と金属製を区別する必要があったか、同じ木製でも被包式である旨の注記かの何れかだと考えられます。 |
![]() 238号機の金属プロペラ 昭和10年9月の資料(陸満密253号)にも、「九一式戦闘機用プロペラ被包式乙型×5」と「同 金属分離式」という記載があります。 少し下って昭和12年5月の関東軍の主要兵器員数調査(陸満普1293号)に、九一式戦闘機機体が93機に対して、九一式戦闘機用プロペラ「被包式乙型」と「金属」という記載があります。被包式は合計88本、金属は22本となっています。 この資料を見つけた折は「2型の22機と同じ?」と疑問符が付いたのですが、これは2型の金属プロペラではなく昭和8年の1型用金属プロペラの残存本数とすれば、合点がいきます。8本損傷したということでしょう。 但し、金属プロペラ自体はメジャーになっていないようで、写真もほとんどありません。木製の被包式プロペラが主流として使われているようです。 因みに、この被包式プロペラは、「マントルプロペラ」と同じものを指すと思われます。「解氷期に於ける木製プロペラの損傷を憂慮するにより、既製木製プロペラ品は内地に還送し、加修せしめられたし」(昭和9年6月 陸満密253号)が目的なのでしょう。土井武夫氏の『飛行機設計50年の回想』に出てくる独シュワルツ社の「マンテルプロペラ」と同じで、マントの意味のようです。 |
(5)増加タンク? 昭和9年11月の「航空器材の交付(陸満密第三四九号)」に、「九一式戦闘機用増加タンク 四」というのがあります。 |
部品番号、図番の記載がないことから、当初から計画されているものではないようです。どうのようなものだったのでしょうか。 |