飛行場景色 東地区(石川島飛行機製作所)

東地区     

西地区           

初版 2017.05.18

立川飛行場(飛行場景色 石川島飛行機製作所)
 
石川島飛行機製作所の航空写真(その1)
 石川島飛行機製作所は、大正13(1924)年11月に、飛行機の設計、制作、販売を事業目的として創立され、当初は中央区月島に工場が設けられた。設立当初から練習機などの設計を行い、陸軍に売り込んだものの採用は叶わなかった。
 同社は正15(1926)年12月に立川町に工場用地(立川飛行場の東側)を得ており、新工場を建設してきた。昭和2年5月には、新工場での操業が始まっている。
 この工場新設の背景には、昭和3年に制式制定された八八式偵察機があっただろう。八八式偵察機は乙式一型偵察機の後継機種で、その製造を促進する必要を陸軍は感じていたのだろう。制式後すぐに石川島飛行機は陸軍指定工場になり、その転換生産がはじめられた。昭和3年の工場設置は、そのためと言えなくもない。同年12月には、製作中の新聞記事がある。
 写真では昭和3年1月築とされる2棟の工場(現存)が中央にあり、道路に面したところにも工場がある。ロータリーらしきものも見えるので、事務所であろう。  本葉の撮影時期は明らかではないが、すぐ隣に東京日日新聞社の格納庫(昭和3年7月竣工)ができており、昭和6年1月築とされる大組立工場(こちらも現存)が見えてないことからの、その間の撮影と考えられる。
  石川島飛行機製作所の地上写真
 飛行機は左から、八八式偵察機(石川島で転換生産したものだろう)、自社設計のR3練習機(昭和3年に設計開始、昭和5年3月に完成)、アブロ504練習機でえ、その背景に道路に面した工場が写っている。
 アブロ504は、当時招聘していたグスタフ・ラハマン技師の提唱する「スロット翼」を研究するためのもので、昭和4年には本機にスロット翼が装着され、試験飛行を行っている。
 本写真の撮影時期も不明だが、大組立工場が見えていないこと、上記を併せて、昭和5年春頃の撮影だろう。
 
石川島飛行機製作所の航空写真(その2)
 その1に比べ、昭和6年1月築の大組み立て工場が増えている。また、その1で見えている東京日日新聞社の格納庫が見えていない。同社の格納庫は、昭和6年8月の羽田開場に伴って移転・撤去されており、昭和7年2月に移転完了の新聞記事が東京日日新聞(府下版)にある。
 以上から、本写真は昭和6年中に撮影されたと判断できよう。
  大組立工場の内部
 昭和6年1月築の大組み立て工場では、文字通り機体組み立てが行われていていたようで、それを窺わせるのが本写真である。写真では3機の八八式偵察機が組み立てられている。そのうちの1機は。630の機体番号が見える。
 三田鶴吉氏の『立川飛行場物語(中)』のp.49の写真が本写真と同じである。同書では「八八式軽爆と九五式1型練習機」と解説されているが、奥の620号は八八式二型偵察機である。また、手前の機体は九一式戦闘機に見える。とすれば、石川島飛行機製作所での転換生産第一号機完成の昭和7年8月頃の撮影ではないだろうか?
   
【おまけ】隣にあった東日の格納庫
 おまけとして、その1で見えている東京日日新聞社の格納庫をあげる。
 写真は、東京日日新聞(府下版)の昭和3年7月23日付の竣工記事からで、同記事では「格納庫の位置は立川飛行場の北東端場外で、石川島飛行機工場に隣接し、総建坪二百坪、鉄骨、間口十四間(25,5m)、奥行十三間(23.6m)、現用機5機を収容できる」とある。
 同格納庫は前述の通り、昭和3年7月に竣工、昭和7年2月に撤去が新聞地方版から分かる。本格納庫が写っている写真であれば、その間に撮影されたものと判断できる。
 なお、撤去の記事では、格納庫は「長野県上田の市営飛行場に移設」とある。