立川を飛んだ機体 石川島飛行機製作所/立川飛行機
  
      

初版 2014.07.27
A版  2015.04.24
立川飛行場(立川を飛んだ機体 石川島飛行機製作所/立川飛行機)
自社開発機  
 
T-2偵察機
 大正14年夏、陸軍は乙式一型偵察機の後継たる偵察機として国産機を得るべく、はじめて民間による競作を実施した。これは川崎、三菱、石川島の各社に対して指示が出され、川崎ではリヒャルト・フォークト技師、三菱ではバウマン教授により設計が進められた。 石川島では吉原技師を主務者とし、ドイツのアルバトロス社から招聘のラハマン教授のアドバイスにより、木製桁に木製リブを組み合わせた主翼、金属鋼管胴体のT-2型機で臨んだ。
 昭和2年7月下旬から8月上旬にかけて各社の試作1号機は、立川で10月上旬まで基本審査が実施された。実用試験前の改修、実用試験が11月下旬から12月上旬まで下志津や明野の飛行学校で行われ、試作2号機も11月下旬から審査に加わって、昭和3年1月に次の判定結果が下った。 T-2は、補助翼の飛散事故を起こしていたが、「石川島機は概ね飛行性能を充足し、操縦性、装備、偵察、通信等の成績良好なるも、構造、強度、射撃、対敵編隊等においては遺憾の点少なからず。相当大なる改修を施さざれば、実用に供し得ず」。 三菱機にも同様であり、「川崎機は偵察機として適当と認む。」と判断され、皇紀2588年(昭和3年)制式として制定された。これが、八八式偵察機である。
 写真は、陸軍の偵察機審査書類より。
  T-3偵察機
 T-2が軍の審査中に補助翼飛散事故を起こしたことから、その構造強化版として完成したのがT-3型機で、外観上の違いはないと云われる。昭和3年1月に軍に提出したが、すでに川崎機の制式化が内定されていた。
 一機だけ製作されたT-3はその後陸軍から朝日新聞社に払い下げられ、J-BBCAとなった。
 写真は、立川飛行機の創立満30年記念絵葉書より、「ラハマン博士指導の下に完成せる「T-3型偵察機」の前に関係社一同が会社創立の恩人故子爵渋沢栄一翁を中心に撮影せる写真」とある。中央(向かって左から6人)が渋沢栄一子爵、その二人隣(向かって左から4人目)が二代目社長の渋沢武之助。
 
R-3練習機
 石川島飛行機は小型発動機との組み合わせによる練習機を自社開発しようと目論見、その設計試作を行った。
 大正15年開発着手、昭和2年7月に1号機完成のCM-1(CMは、シラスモーターの略、のちにR(練習)-1呼ばれた)に続き、昭和2年7月に着手したR-2を年内に完成させ、軍に審査してもらった。昭和4年11月末に出されたR-2の審査結果は、次であった。 「本機は、己式一型に比し優良なる性能を有するも、之を制式として採用するや否やに就いては、荷重試験を実施し構造強度に関する適格なる修正事項を定めたる後、その若干機につき相当期間実用し決定するを適当と認むる。」と、手厳しい内容であった。
 ただし、石川島飛行機製作所はめげずに、同じエンジン(シラス・ハーメスU、空冷直列4気筒)を搭載したR-3の開発に着手し、昭和4年9年に完成した。R-3は5機生産され、2機が陸軍航空本部技術部に(のちに払い下げられて学生航空連盟に)、1機は社の実験機(J-BDED)、1機は朝日新聞社に、1機は海防義会に買い上げられ「青年日本」号(J-BEPB)になっている。  また、R-3には英国ハンドレページ社からライセンスを購入したスロット翼がつけられ、試験に用いられていた。
 写真は、石川島発行の絵葉書より。
  R-5練習機
 石川島の自社単独開発練習機の、創立期の最終形態機。中心者であった吉原四朗技師が英国留学(昭和5年9月〜7年2月)する前に、構想されていたのだろう。R-5の5は昭和5年と考えらる。  本機はR-3をリファインし、エンジンをシラス・ハーメスW(空冷倒立直列4気筒)に換装した。
 倒立型のハーメスWに換装したことでプロペラ軸(クランク軸)がエンジン上部に位置することになり、主脚の長さを減らせているとともに、R-3より機首ラインのまとまりがよくなった。のちのR-38(パラソル翼)との側面的な違いは見られない。2014年4月にタチヒで公開されたR-53とも既に大きな違いはない。
 一号機は吉原技師の帰朝後に製作され、昭和8年1月に完成。陸軍に審査を依頼したが、エンジン不調から制式化には至らなかった。
 写真は入手できていないので、『航空大写真帖』から、側面図を載せた。
 
小型患者輸送機(KKY)
 昭和7年8月に陸軍からの試作指示があった小型患者輸送機(社内呼称、KKYはその頭文字)。ただし、試作指示は航空本部よりのものではなかったことから、キ番号はない。
 DH83フォックスモスを参考に設計され、昭和8年12月に1号機が初飛行したが、いろいろ改修が必要だったようで、昭和10年夏頃に制定となった。
 愛国号としては愛国97「大阪薬種製薬」号、愛国124、125「酒井」号、愛国127「カトリック」号、愛国136「少年赤十字」号がある。  写真は、愛国136号の献納記念絵葉書より。
  小型患者輸送機改(KKY2)
 小型患者輸送機のエンジンはR5練習機と同じシラス・ハーメスWエンジンであったが、信頼性に劣るものであったことから、東京瓦斯電気の星型空冷「神風(ハ12)」に換装した型が生産された。これが、小型患者輸送機改(KKY2)である。
 愛国号としては、愛国号として10機以上が献納されている。
立川でも昭和14年6月に愛国号18機の命名式があり、その中に4機の本機(愛国147「吉原」号、愛国223、224「日本医師会第一、第二」、愛国241「第二女学生」)があった。他には、愛国283「眞宗高田派本山」号、愛国314「将校夫人」など。
愛国223は陸軍書類から昭和14年3月製造と分かっており、同16年8月6日に天津にて着陸事故を起こし主翼を大破したことが判明している。
 写真は、愛国241号の献納記念絵葉書より。
 
九五式一型練習機甲型(キ九甲)
 昭和9年3月、所沢陸軍飛行学校において大正13年準制式以来の己式一型練習機の後継機の研究会が催された。石川島も参観が許され、翌4月には石川島一社への単独試作指示があった。
それまでの練習機試作の熱意を買ってもあるだろうし、石川島を育成するという狙いもあった。無駄な試作競作を避ける意味もあっただろう。
 石川島では遠藤技師・中川技師を中心に開発を進め、同年暮に試作機を完成、翌年1月に釜田操縦士により飛行した。大きな問題もなく、石川島では2回飛んだのみで、飛行場向かいの技術部に引き渡された。
 本機種は中間練習機(初歩練習機と実用機の性能差を埋める練習機)と初歩練習機(飛行機に乗り始めの練習機)を、1つの機体でエンジン換装することで実現しようとしたものであったがうまくいかず、中間練習機専用として昭和10年7月に制式制定された。石川島としては、初の自社設計機の制式機となった。
 本「甲」型は主脚がごつい。これは「九三式単軽爆撃機の主脚を使え」という陸軍要求によるものと、遠藤技師の回想(『日本傑作機物語』、昭和34年4月、酣燈社)にある。
  九五式一型練習機乙型(キ九乙)
 制式化された九五式一型練習機は、初歩練習機との併用を考慮した設計からスタートしているため重心位置が前寄りで、高等飛行が難しかった。このことから、重心位置後退、機体軽量化等の改造や主脚構造の簡素化を行った乙型が生産された。それまでの型は甲型と称された。
 九五式一型練習機は、立川飛行機で約2400機(2398機)が生産されたほか、日本国際航空にて220機の転換生産があるが、そのほとんどが本乙型である。
 
九五式三型練習機(キ一七)
 九五式一型練習機で前述したように、同機があきらめた初歩練習機を改めて開発すべく、昭和10年4月に石川島が試作を命じられた。作業は突貫で進められ、試作機2機を8月に陸軍に収めた。審査結果はその良好で、年末(昭和10年12月)には九五式三型練習機として制式制定された。
 立川飛行機と東京航空機で約660機が生産され、タイにも20機が輸出された。
 本機の機体数が九五式一型練習機ほど多くないのは、市販書では、その後の実用機自体が高性能化したことから、九五式一型練習機自体が中間練習機の役割を担いにくく相対的に初歩練習機化したことがある、としている。
 事実であろうが、それは構想時点で分かっていたことではなかったかと筆者は思う。初歩練習機はあった方がいいはずだが、育成すべき操縦者数の算定が低く行われたために機体数が少なく、開戦後の消耗で相当数の機数が必要になったが、三型を新造する余裕なく一型で代用するしかなかったというのが実態だろう。
  九八式直協機(キ三六)
 昭和12年7月に立川飛行機に設計試作が下命された機種で、直協機とは地上軍に直接協力して、偵察や小規模爆撃を行う機種のこと。
 翌年4月中旬に試作機2機を完成し、航空本部技術部と下志津飛行学校にて基本審査を行い、昭和13年8月に第一次審査を終了した。
 第一次審査での旋回性向上と装備の改修、装備発動機の改良型への換装を決定し、第二次審査として増加試作機の制作指示があり、9月上旬には4機(陸軍書類には4機とあるが、この数字は増加試作機だけではなく、最初の試作機2機を含む数字である)を完成した。この改良型にて第二次審査および下志津校での実用審査を終了、昭和13年12月に制式制定された。
 立川飛行機で861機が生産され、他に川崎航空機で472機が転換生産された。
 
九九式高等練習機(キ五五)
 九八式直協機の低速安定性に注目した陸軍は、昭和14年4月に立川飛行機に対して九八式直協機に複操縦装置を付加して、高等練習機とする試作を指示した。
 立川では同年3月と4月に原型機2機を完成させ、良好な審査結果により、昭和14年7月に九九式高等練習機として制式採用された。
 本機種は立川飛行機で1,075機、川崎航空機で311機の転換生産が行われている。
  一式双発高等練習機(キ五四)
 昭和14年3月に試作指示があった乗員訓練用の機種。市販書では、「九五式二型練習機の後継として」の記述があるが、あの機種自体が20機ほどしか生産されておらず、その後継というより、ようやく乗員訓練の必要性・重要性に気付いたということだろう。
 昭和15年6月には試作1号機を完成、6月に初飛行し、軍での審査もによる改修と実用審査を経て、昭和16年7月に制式制定された。意外に、制式化までに時間がかかった印象がある。
 本機種は操縦と航法訓練用の甲型、旋回銃射撃や無線通信訓練用の乙型、輸送機化した丙型、対潜哨戒機としての丁型など多種におよび、1,300機強が生産された。民間型の39Y輸送機も少数機が生産されている。  なお、2012(平成24)年9月に十和田湖から引き上げられたのは本機種で、三沢の青森県立三沢航空科学館にて展示されている。
 写真は、立川飛行機発行の絵葉書より。
転換製造(昭和16年12月まで)  
 
八八式一型偵察機
 T2偵察機にて前述したように、試作偵察機競作では川崎機に破れた石川島であったが、この八八式偵察機が石川島の飛行機メーカーとしての地位を築くきっかけとなった。
というのも、昭和4年1月から八八式偵察機を99機転換生産し、これにより陸軍との信頼関係を築いていったのである。
 写真は、命名式に備えて、石川島が最終整備した愛国5「小布施」号。
  八八式二型偵察機
 二型も石川島で転換生産を行っている。昭和6年8月以降に、その数88機となっている。
 写真は、命名式に備えて石川島が最終整備した愛国10「朝鮮」号で、『航空界の今昔』(昭和)より。背景に石川島の大型組立工場が見えている。
   
八八式軽爆撃機
 軽爆撃型も37機を、昭和7年6月以降に転換生産している。
 写真は、命名式に備えて石川島が最終整備した愛国12「立山」号。
  九一式戦闘機
 石川島は、八八式偵察機続く競作である「陸軍単座戦闘機試作」にも応募したが、設計審査で破れ、実機製作には至らなかった。この時の制式機が、中島の九一式戦闘機である。
 その元ライバル機である九一式戦闘機も、昭和7年から9年春にかけて、石川島で転換生産した。これは製造番号501〜601の101機であると考えられ、501号機は昭和7年8月末に完成している。
 一方、製造番号100番台などで判明している石川島製の機体(例;160、166など)は101機には含まれていないと考えられ、もう少し石川島での生産機数は多いだろう。
 中島の生産機では方向舵右面の製造年月は漢字標記であるが、石川島での生産機はアラビア標記になっており、石川島生産機を識別できる。
 写真は、石川島が転換生産した九一戦(製造番号166)の愛国48「佐賀」号。
 
九三式単軽爆撃機
 川崎造船設計の本機種を、石川島では昭和9年9月〜10年2月に渡り、40機転換生産した。  写真は、当時の絵葉書より。
  九四式偵察機
 中島飛行機設計の本機種を、石川島では昭和10年6月より翌11年3月において57機を転換生産した。
 
ビーチクラフトC17E輸送機
 本機種の外観的特長は、多くの複葉機が有する食い違い翼(上翼が前にせり出している)とは異なり、下翼がせり出している珍しい形態(逆スタッガー翼)である。
 本機種名になっている"スタッガーウィング"とは、本来は食い違い翼の意味だが、逆が特徴的であったためか、逆が取られた「スタッガーウィング」と呼称された。
 本機種は日本航空輸送によって昭和11年に輸入され、ローカル線に旅客機(乗員1名、乗客4名)として用いられ、のちに立川飛行機と東京飛行機製作所でライセンス生産された。その数は20機とされる。
 なお、日本のWikipediaには、本機について日本や日本航空輸送の記載がなく、残念である。
 本写真は、当時の日本航空輸送発行の絵葉書より。
  九七式輸送機
 昭和12年春、逓信省は民間機製作工場確保のため、立川飛行機の第二工場(砂川工場)をあてることを決定し、日本航空輸送が立川飛行機に出資することになった。
 満州航空の定期便に用いるべく中島が開発した中型輸送機で、中島社内呼称はAT(Aerial Transport)で、2番目のAT-2が実機試作された。昭和11年9月に初飛行。
 陸軍は、AT-2をキ三四として無線航法練習機に用いる計画あったが、輸送機に転用された。輸送機としては昭和12年6月中旬に1号機が完成し、昭和12年12月に仮制式制定された。
 その後中島ではDC-3のライセンス生産に注力することから、立川飛行機にその生産が引き継がれ、立川飛行機では、昭和13年10月から17年7月にかけて270機の九七式輸送機を転換生産した。陸軍書類から推測すると、九七式輸送機の1,000番台が立川飛行機製の模様である。
 なお、本機の主務者である明川清技師は、戦後、立川航空機に顧問として在席されていた。
 本写真は、当時の満洲航空発行の絵葉書より。
 
九七式戦闘機
 中島飛行機設計の本機種を、石川島では昭和13年12月より翌14年8月において、60機転換生産した。
 写真は、当時の絵葉書より。
  ロッキード14WG3/ロ式輸送機
 ロッキード(ロックヒードの表記あり)社の高速中型輸送機で、第二次大戦ではイギリス空軍が採用し、その「ハドソン」という英国呼称が有名。
 本機は、中島AT-2(九七式輸送機)と比べて速度性能や搭載量が優れており、昭和12年秋以降に日本航空輸送が本機(合計30機)の導入を計画り、その継続会社である大日本航空が運航した。立川飛行機は資本の関係(日本航空輸送が資本投入していた)からか、その輸入や機体組み立てを依頼されている。また、陸軍も「ロ」式輸送機として導入し、ライセンス生産を立川飛行機で行っている。
 本機は低速時の失速や安定性不良等の問題があり、昭和14年春に事故が連続したことから、ロッキード社の技術者による「主翼端への固定式スロット追加」により対処している。
その後、本機の生産は川崎航空機に移り、着陸時の安定性や貨物搭載量を増加させた改良型である一式貨物輸送機(キ五六)に発展した。
 「ロ」式輸送機の総生産数は100機と云われ、立川飛行機では45機(他説あり)とされている。
 本写真は、当時の満洲航空発行の絵葉書より。

 なお、本機のライセンス生産にあたり、2,000tプレス機が導入され、立川飛行機の生産能力が向上したとされている。 正確にはハーレル・バーミンガム社の2,000t水圧プレス機で、陸軍が購入してメーカーに有償貸し付けていたもの。立川飛行機だけに限った話ではなく、川崎航空機にはクランクシャフトの焼入(表面硬化)機械が、三菱重工には傘型歯車研磨機が、日立航空機には堅型輪削機(?)には貸付られている。申請は、各社とも昭和14年9月末から10月上旬。