立川を飛んだ機体 陸軍航空本部技術部(その1 〜昭和10年)
    
  
      

初版 2014.07.20

 陸軍航空本部技術は、「航空に関する器材調査研究試験及び審査」を1つの業務とする官衙(役所)であった。
当然ながら、試作機を経て制式機となる機体、非制式ながら使用していた機体が飛んでいた。また、制式後に起きる不具合調査である「補備試験」用に、制式機も置かれていた。さながら、現代なら、航空自衛隊では岐阜県岐阜基地(各務原)の飛行開発実験団(ADTW)、米空軍ではカルフォルニア州エドワーズ空軍基地の空軍の飛行試験センター(AFFTC)である。
 斎藤茂太氏は、戦前の立川に足繁く通われていたが、これらの機体を見るためであった。


立川飛行場(立川を飛んだ機体 陸軍航空本部技術部時代)
 
乙式一型偵察機
 大正8年に来日した仏国航空団(フォール大佐団長)が導入して以来の古参機で、陸軍航空の礎を築いたのが本機種である。
 航空本部技術部が立川に移動してきた時点では、もう新たに試験等をする機種ではなく、装備品の試験や「手頃な足」として使用されていたのだろう。移転翌年の昭和4年度での技術部での飛行回数は679回と、日曜・休日を除くと2.3回/日飛んでいる計算になる。
 本写真は向って右手奥に飛五の格納庫が見えることから、立川それも技術部側からの撮影と分かる。
  甲式四型戦闘機
 本機も大正12年7月に仮制式制定された古い機体だが、航空本部技術部が立川に移動してきた時点においては中島飛行機でライセンス生産中であり、技術部側でもまだ偽装品等の試験をしていた模様である。移転翌年の昭和4年度でも技術部で269回の飛行回数を記録している。
 大正15年11月、陸軍は「大正12年に準制式として採用するも、欧米列強に比して性能著しく遜色し、遠からずこれの改正(即ち、機種改変)を要す」として、民間会社による競作試作を打ち出した。これが、九一式戦闘機につながる。
 本写真は、立川での撮影ではないとか思われるが、確証は得られていない。
 
己式一型練習機
 甲乙丙丁戊己の十干式呼称を用いた最後の機種が本機で、大正13年3月に準制式制定された。
 本機種の特徴は、ローン回転式80馬力という回転式エンジン(プロペラとは逆方向に、エンジン自体も回転する)という古い形式のエンジンを積んでいたことがある。技術部が移転してきた当時、将来も使う予定の回転式エンジン搭載機は本機種くらいしかなかった.
 そのためであろう。陸軍航空統計を見ていると、昭和4年と5年に、「己式(シ式100馬力)」という機種の飛行記録が技術部にある。  「シ式100馬力」とは、石川島飛行機製作所飛行機が当時推していた「シラス・ハーメスMk.U」が該当すると考えられる。石川飛行機のR-3練習機、「青年日本号」が搭載したものと同型である。エンジン換装を計画しても、少しの不思議はない。
 
 
八七式重爆撃機
 本機種は、ドルニエDo.Nを川崎造船によって改造した機種で、技術部が立川に移転する直前(昭和3年5月)に仮制式制定されている。
 技術部には1機が在籍していたようで、昭和5年6月の学生航空連盟主催の「空の会」では21号機が、昭和8年5月の行幸時には20号機が地上展示されている。
 なお、昭和4年8月14日、立川を離陸直後に発動機故障から失速、背面きりもみとなって、砂川村六番に墜落したのも本機種だが、該当機は飛行第七連隊機である。
 本写真は、向かって右奥に飛行第五連隊の格納庫が見えることから、立川での撮影。(当時の絵葉書より)
  八七式軽爆撃機
 陸軍が得た最初の軽爆撃機で、外国機(ブレゲー19、フォッカーC.V)との比較審査により選定された。元の機体は、三菱の一三式艦上攻撃機。
 元の機種が古い必ずも満足できる性能ではなかったようだが、「部隊錬成上必要なため、補給容易な面から」として大正15年12月に選定され、翌昭和2年10月に制式制定された。
 昭和5年6月の学生航空連盟主催の「空の会」では、そのフォッカーC.V(4958号機)とともに、22号機が地上展示されている。
 
八八式一型偵察機
 大正14年夏に、乙式一型偵察機の後継を得るべく陸軍初の民間会社競作が行われた。その結果制定された機種が川崎造船飛行機部(当時)製の本機で、昭和3(皇紀2588)年1月に制式制定されている。
 本機の特徴に、当時の自動車のようなラジエータ・グリルと、背の低い方向舵がある。写真は試作1号機で、『航空界の今昔』から。
 なお、本機は石川島飛行機でも転換製造されている。
  八八式一型偵察機(改)
 一型のラジエータ・グリルは不具合が少なくなくかつ抵抗が大きかったためか、吊り下げ式にして機首を流線型に整形された改造機が製作された。本523号機がそれである。
 市販書では「軽爆撃機型への改造に用いられた」という説明があるが、尾翼に一型からの改造と判断できる部分があること、ラジエータのまとめ方が二型とは異なる(別な写真は、冷却器がむき出し)ことから、二型への改造試験機と見るべきと考える。軽爆撃機型にも用いられたかもしれないが、その特徴である主翼支柱増強(軽爆撃機で後述)は見られない。
 本523号機は航空本部技術部に在籍していた機体で、昭和5年6月の学生航空連盟が主催した「空の会」時にも地上展示されている。
 
八八式二型偵察機
 八八偵一型の自動車グリルのような機首はすぐに改良され、流線形化された二型が制定された。補助翼も上下主翼に配され、連動のための槓桿が付加されている。
 写真の機体は機体番号642号、愛国30「女学生」号で、昭和7年6月19日に所沢で命名式後、飛行第十大隊に配備され、満洲事変に参戦した。「女学生」という名称からか独身パイロットに人気があったとのこと。
 航研機で有名な藤田雄蔵大尉乗機ともなり、偵察機でありながら地上攻撃にも戦果を上げた武勲機となった。愛国号でかつ武勲機は衆目を集めることから内地環送が決定し、昭和11年4月下旬で、奉天の関東軍野戦航空廠から立川航空支廠へ空中輸送され、靖国神社の国防館に展示された。
 本型機も、石川島飛行機で転換製造されている。
  八八式軽爆撃機
 八八式偵察機は搭載力に余裕があり、一型においても爆弾を搭載して爆撃に用いられていた。
 加えて、八七式軽爆撃機に陸軍は満足しておらず、独自に陸軍が試作した軽爆撃機が不調に終わったことから、昭和4年春以降に正式に爆撃機型として開発されたのが本型である。
 本軽爆撃型は二型をベースにして主翼の中央保持支柱が増えており、正面から見るとW型になったことが識別点である。
 本二型も、石川島飛行機で転換製造されている。
 
石川島飛行機製作所 R-3練習機 【非制式】
 石川島飛行機製作所が開発した練習機シリーズの1機種で、軍に審査願いが出ている。それを受けてか、昭和4年度に1047回、昭和5年度も561回とかなりの飛行回数を計上している。
 ただ、昭和4年の機種別飛行回数の1000回超は、他機種を抑えてダントツ(2位が乙式一型偵察機の671回)で、単に採用審査で飛んだ回数だけでとは思いにくい。本機種には石川島飛行機製作所が進めていたスロット翼が装備されていたことから、その飛行試験に用いられていたのではないだろうか。  写真は、石川島飛行機製作所の工場前のR-3。当時の絵葉書からである。
  カーチスP-6 【非制式】
 後述する中島NC型機(のちの九一式戦闘機)が墜落等により前途が危ぶまれた時、三菱商事が昭和5年に輸入した機体。この機体の輸入時期に堀越次郎技師が渡米中であり、機種選定に関わった可能性がある。  今川一策氏の回想(『続・日本傑作機物語』、昭和35年、酣燈社)では、「いい飛行機だった。背面飛行で上昇もできた。」とのこと。
 
九一式戦闘機
 甲式四型戦闘機で前述したように、その後継機を得るべく陸軍の競作2機種めが「試作単座戦闘機」で、これに合格し、苦労の末に制式化(昭和6年12月)されたのが本九一式戦闘機である。
 立川と本機は、縁が浅くない。実は試作機が2機立川で堕ちている。
 1機目は試作機のNC型機(104号機)で、昭和4年5月17日に、技術部の斎藤庄吉中尉が水平きりもみの試験中、回復できずにそのまま村山村山岸の麦畑に墜落、中尉は落下傘降下して無事だった。新聞報道では甲式四型戦闘機となっているが、機種の伏せは珍しくはない。
 次が写真の機体(NC型機106号機)で、昭和7年11月7日、航空本部技術部の吉田修作技師操縦による性能試験中に発動機故障から、立川飛行場西北方の山林に墜落・大破(吉田氏は重症)したもの。
 左写真も、立川での撮影と思われる。
  九二式戦闘機
 「試作単座戦闘機」に敗れた川崎造船が、独自にKDA-5として自主開発した戦闘機が本機種である。
 昭和6年4月13日に、川崎造船の工場がある岐阜県各務ヶ原(現航空自衛隊岐阜基地)から立川に飛来し、審査を受けている。制式制定は、昭和7年春。
 左写真は、立川の技術本部格納庫前における撮影。従来から知られている写真であるが裏焼きであり、これが正しい。
 
ユンカースK37 【非制式】
 当時傑作機として評価の高かった本機を、三菱商事を通じて輸入し、昭和6年○月に立川に空輸されてきた。
 昭和6年秋に飛行機献納の機運が高まると、陸軍は学芸技術奨励金という醵金制度を通じて献納されたことにし、本機はその一号(愛国一号)となった。学芸技術奨励金は、本木のような非制式機の献納に用いられた(利用された)ものであった。
 愛国一号は昭和7年1月10日の代々木練兵場での命名式後に満洲へ派遣され、飛行第七大隊第三中隊に配備されて実戦の場に臨んだ。
 昭和7年2月の大江少将の満洲部隊視察報告には末尾に本機の研究報告がついており、「八七式、八八式軽爆に比し、遥かに優秀と認む。」と手放しの評価を与えており、これがのちの九三式双発軽爆撃機の解発につながる。
  ドルニエメールクール 【非制式】
 ドイツのドルニエ社と提携していた川崎造船が昭和4年に輸入したのが、Do.B メールクール(英語ではマーキュリー、水星)である。
 川崎は陸海軍軍に売り込みを図ったがその目論見は外れ、川崎は同機を朝日新聞社に貸与した。登録記号はJ-BAFHで、立川でも使用された。
 昭和6年秋に飛行機献納の機運が高まると、陸軍はこれを患者輸送機として用いようとし、朝日から戻させて愛国2号となった。機体価格の5万円分を川崎造船が寄付した形となり、BMWエンジンと装備費で12万が(愛国1号と同じように)学芸技術奨励金が使用された。
 全金属製の本機は重くパワー不足であり、満洲の不整地では使用しにくい機体であったらしい。昭和7年4月下旬に関東軍参謀部からの電報に「交通不便なる地方における戦病傷者、特に重傷者の空中輸送のため愛国2号機の性能は適当ならざるは三月三十日の書類のごとし」、「戦力保持のためにも、他の患者輸送機を交付されたい」との要望が出されている。他機が用意され、愛国2号は昭和8年5月に廃兵器となった。
 本機は、代々木で行われる命名式出席のため昭和7年1月9日に立川に飛来している。本写真の背景に、九一式戦闘機や九二式戦闘機が見えることから、立川への飛来時の撮影と推測される。
 
DHフォクスモス 【非制式】
 昭和4年に輸入されたイギリス機。3機を石川島飛行機製作所が購入し、患者輸送機に改造、愛国号として献納された。
 写真はそのうちの1機、愛国106「陸軍軍医団」号。他には愛国95、96「大阪薬種製薬」号。
  ケレットK-3 【非制式】
 オートジャイロ。昭和8年春に2機が輸入され、のちに愛国81、82号となった。昭和8年5月の行幸時には1機が天覧飛行に供されている。
 昭和8年11月、立川で保管中の愛国81号が発動機3基らと共に下志津飛行学校へ支給され、昭和9年6月には所沢飛行学校に支給された。一方の愛国82号は昭和8年9月には廃兵器として立川の技術部に支給が許可されている。
 写真は立川飛行場を飛ぶ本機だが、愛国号として献納される前の模様。
 
九二式偵察機
 八八偵より軽快な手頃な機体を目指した機種で、のちの直協機(直接協力機)のルーツである。
 フランスから招聘した技師を主務者として三菱が開発を進めたのが本機で、昭和7年春〜夏に制式制定された。三菱機で、外国人技師が携わった最後の機体とされている。
 本写真は立川陸軍航空支廠の絵葉書だが、技術部(のちに技研)には33号機があり、低圧タイヤの試験やスキーを装着した雪上離着陸試験等を行ったことが、今川一策大尉の回想(『回想の陸軍機』、昭和37年、酣燈社)にある。
 また、新潟県で本機2機を含む愛国号4機が献納された際、その命名式に技術部から操縦者が機体を空輸している。まだ、使用している部隊が東日本にはなかったからだろう。九二式偵察機の愛国56「新潟消防」は秋田熊雄大尉、愛国57「新潟学生」号は甘粕三郎大尉と、錚々たる顔ぶれになっている。
  九二式重爆撃機(キ二〇)
 本機種は台湾からフィリピンにある米軍基地を爆撃するため、ユンカースG.38の製造権を三菱内燃機に購入させ、製造させたのが本機種である。「特殊試験機」秘密裏に作業されたと戦後の市販書にあるが、昭和一桁当時はどうだったのか怪しい。というもの、少なくとも昭和6年12月に1機が立川に来るということが、事前に地方版(東京府下版)に掲載されており、飛来時には写真付きで報じられているからである。
 この昭和6年末に飛来した本機は翌年5月まで立川で審査が行われ、その後浜松の飛行第七連隊に送られている。昭和7年度の陸軍航空統計では「特殊試験機」として114回(83時間7分)の飛行記録が計上されている。技術部では、54回(38時間1分)とある。
 昭和5年7月に竣工の技術部の新築格納庫は本機を格納するためのもので、レールを敷いて横向きに出し入れできるものであった。
 昭和8年8月に準制式制定されているが、昭和8(皇紀2593)年では九三式になる。それがなぜ九二式という1年前の制定年が用いられたかは、明らかにできていない。
 なお、昭和14年秋に1機が技研に置かれており、翌年1月の陸軍始め観兵式にて3機がその姿を見せている。示威飛行だった模様である。
 
九三式重爆撃機(キ一)
 愛国一号(ユンカースK37)の高性能に刺激された陸軍が、それと九二式重爆撃機を範にとった重爆撃機を得ようとした機種。ちょうど、試作機を含めた呼称が、俗にいう「キ番号」に変更された後の、第一号となった。
 見た目同様に重く、自重が4,800kg強に燃料等を最大に積んで全備重が8,100kg強。これを700馬力エンジン×2では支えるのに一杯。最大速度は要求仕様240km/hに届かなかったが、整備急務ということで、昭和8年11月に、制式制定された。
 本写真の機体(203号機)は試作3号機(増加試作1号機)であり、向かって右奥に飛行第五連隊の格納庫が見えることから、技術部格納庫前にあるエプロンで撮影されている。当時の絵葉書から。
  九三式双軽爆撃機(キ二)
 愛国一号(ユンカースK37)の高性能に刺激された陸軍が、ほぼそのまま国産化しようとした機種。発動機のタウンネンドリングや風防が、K37との外観的違いである。
 昭和8年5月に1号機が完成し、同年8月には制式制定された。
 なお、本機の試作1号機(301号機)は、昭和8年6月12日の立川での試験飛行において、片方の発動機が不調から停止となり、立川町3659番に不時着。機体係の田島雇員が即死し、操縦者の小野軍曹も重症を負い入院加療中、同月28日に亡くなっている。
 本写真の機体(304号機)は試作4号機(増加試作2号機)であり、技術部格納庫前にあるエプロンで撮影されている。
 
九三式単軽爆撃機(キ三)
 
 キ二とは別に試作指示が川崎に出た軽爆撃機で、昭和8年4月に1号機が完成し、同年8月には制式制定された。
 本写真は昭和9年2月の撮影とされるもので、飛行第五連隊の格納庫前での撮影。ただし、写っているの機体は、浜松の飛行第七連隊機とされている。
  九四式偵察機(キ四)
 八八偵の後継として開発された機体で、のちの軍偵のルーツである。
 昭和8年夏に陸軍は中島に対して試作を命じ、昭和9年3月に試作第1号機が完成させ、甘粕大尉や藤田大尉らによる審査を経て昭和9年7月に九四式偵察機として制式制定された。
 方向舵が鋭敏すぎたようで、部隊配備直後に胴体が延長された乙型に変更さている。本写真も、胴体延長型である。
 
ダグラスDC-2 【非制式】
 昭和9年、中島飛行機が輸入し、技研で審査されていた機体。ダグラス社の製造番号は1323、米国登録記号はNC14284。昭和9年12月1日に羽田から立川に空輸され、陸軍機体番号は1001となった。
 昭和10年度の技術部での飛行回数は112回で、昭和10年9月に藤田大尉の操縦により満洲・新京に飛び、現地で日本航空輸送の社員に伝習教育を行っていることが、陸軍書類から判明している。

 本機はその後、日本航空輸送会社に譲渡され、J-BBOI「新高」号と命名されている。
 
 
 
九五式一型練習機(キ九)
 大正12年に導入された己式一型練習機(アンリオHD.14改)以来となった国産の練習機で、石川島飛行機で設計・製造された。石川島としては、初の自社設計機の制式機である。
 本機は中間練習機(初歩練習機と実用機の性能差を埋める練習機)と初歩練習機(飛行機に乗り始めの練習機)を、1つの機体をエンジン換装することで実現しようとしたものであったがうまくいかず、まずは中間練習機専用機として開発が進められ、昭和10年7月に制式制定された。  この審査は立川で実施されており、昭和10年7月に制式制定された。
 なお、初歩練習機との併用を考慮した当初の基本設計であったため、重心位置が前寄りで高等飛行が難しかったことから、機体軽量化等の改造や主脚構造の簡素化を行った乙型が生産された。それまでの機体は甲型と称された。
  九五式二型練習機(キ六)
 三菱に試作を命じた機上作業練習機(キ七)と中島に命じた機上作業練習機(キ六)のうち、昭和10年8月に制式制定されたのが本機。
 実質上、中島飛行機がライセンス生産していたフォッカースーパー・ユニバーサルであったが、金属3翔プロペラ(写真の試作機を除く)やタウネンドリング、車輪スパッツや低圧タイヤなど外観的識別点ははある。
 ただし、機上差作業練習機としての需要は多くなく20機ほどしか生産されておらず。そのためもあってか、連絡機や数人を運べる「足」として利用された。  航研機の作業で藤田少佐らが毎日のように立川から羽田に出張していたが、その際に本機が使用されていたと、木村秀政氏の回想にある。木村氏自身も一度、立川に送ってもらったことがあったようである。
 写真は、『防空大鑑』(昭和13年4月、皇国報恩会ほか)より。
 
九五式三型練習機(キ一七)
 九五式一型練習機で前述したように、同機があきらめた初歩練習機を改めて開発すべく、昭和10年4月に石川島飛行機が試作を命じられた。
 作業は突貫で進められ、試作機2機を8月に陸軍に収めた。審査結果はその良好で、同年11月には九五式三型練習機として準制式制定された。  
  小型患者輸送機 【非制式】
 石川島飛行機製作所に昭和7年夏に試作が命じられた、小型の患者輸送機。この試作命令は航空本部からではないことから、キ番号はない。
 この小型の患者輸送機試作の背景には、愛国2号の件があっただろう。
 石川島飛行機製作所ではKKY(小型患者輸送機の頭文字)の社内呼称でデハビランドフォクスモスなどを参考に本機を開発、昭和8年12月に初飛行した。いろいろ改修があったようで、昭和10年夏頃に制定となった。エンジンはシラス・ハーメス、のちに星形(ハ12)の小型患者輸送機改(KKY2)が生産された。
 生産は30機ほどで、ほとんどが愛国号として献納されている。写真はそのうちの1機、愛国136「少年赤十字」号。立川でも昭和14年6月に愛国号18機の命名式があり、その中に4機の本機(KKY2)があった。
 
九五式戦闘機(キ一〇)
 昭和9年に川崎と中島に指示があった戦闘機競作で、川崎造船が提出してきたのが本機種。
 昭和10年夏以降に審査され、速度性能重視の中島機を抑えて運動性重視の本機が選ばれ、昭和10年11月に制式制定された。
 写真の機体は試作4号機(604号機)で、技研に置かれていた機体。本写真も技研格納庫前での撮影である。(写真提供 夏谷克彦氏)
  中島キ一一 【非制式】
 左のキ一〇と競作になったのが中島のキ一一。速度に優れた低翼単葉機だが、旋回性を重視された結果、キ一〇に破れた。
 写真は技研格納庫前での、804号機(試作4号機)。
 大きく写っているのは「寿三型」発動機。名前こそ「寿」だが、その実は「光系/ハ8」であり、のちの神風号や九七司偵と同一。それ故、朝日新聞社に払い下げられた本機は、神風号の習熟に使用された。