第4版 2016.07.17

立川飛行場戦前史(太平洋横断機一覧)
機体名(登録記号) 年月 記事 備考
エムスコB3
「タコマ市」号(NR153W)

海軍霞ヶ浦飛行場にて撮影の「タコマ市」号。
昭和5年(1930年)
8月
 ハロルド・ブロムリー、ハロルド・ゲッティ、太平洋横断飛行すべく来日。この時点で、出発地は当初予定の立川から霞ヶ浦に変更。

8月
 霞ヶ浦からの離陸に失敗。

9月
 第二回目の離陸。成功するも、約3時間後に引き返し。挑戦は断念。

9月
 29日、機体保管のため、立川に空輸。
エムスコB3
「パシフィック」号(NR153W)

 立川飛行場の東西定期航空会格納庫前での「パシフィック」号。
 機体は中島飛行機の技師や朝日新聞社の塚越賢爾機関士(のちの神風号の機関士)らの協力を得て、「タコマ市」号を改修・整備した。改修の1つに、立川工作所の協力を得た「投下式尾輪」 があった。また機体も塗りかえられた。
昭和6年(1931年)
4月
 トーマス・アッシュ、太平洋横断飛行すべく来日。前述の機体改造を行い、「タコマ市」号から「パッシフィック」号に改称。
5月  29日、パシフィック号、立川を離陸して横断飛行出発地の淋代へ。
 31日の横断飛行の離陸失敗。
6月  パシフィック号、横断飛行を断念。4日に立川へ戻る。
エムスコB3
「クラシナ・マッジ」号(NR153W)
昭和6年(1931年)
8月
 ドン・モイル、セシル・アレン、太平洋横断飛行すべく来日。  
  8月末
 機体はパシフィック号を大きく改造し、改称。主な改造点は、次の8項目。
@尾部交換
A尾橇を尾輪に
B集合排気管の装着
C新NACAカウリングの取り付け
D気筒バッフルの導入
E加給器の取り付け
F偏流指示器の取り付け
Gプロペラの短縮化
 左記改造のため、モイルとアレンは金銭的余力がなく、木下耶麻次朝日新聞社航空部長が自宅を改装したうえ提供するという応援を行なっている。  8月末、改造なった機体は今度はオレンジ色に塗られ、所有者バファリンの令嬢から「クラシナ・マッジ(Clasina Madge)」号と命名された。Madge はMargaretの愛称である。
9月  5日、クラシナ・マッジ号、立川を離陸して横断飛行出発地の淋代へ。
9月  8日、クラシナ・マッジ号、横断飛行へ離陸。途中の不時着を経て、10月上旬、目的地のタコマ市に到着。
ベランカ スカイロケット
「ミス・ビードル」号(NR796W)

 立川飛行場の日本航空輸送会社第一格納庫前での「ミス・ビードル」号。  
 機体は、真紅であったとされる。
昭和6年(1931年)
8月
 6日、クライド・パングボーン、ヒュー・ハーンドン、太平洋横断飛行に兆戦すべく、立川へ飛来。
不正入国や航空法違反を問われる。
9月  飛行許可が下り、機体改造。
27日、ミス・ビードル号、立川を離陸して横断飛行出発地の淋代へ。
10月  4日、ミス・ビードル号、淋代を離陸。飛行時間41時間余で、ワシントン州ウエナッチへ到達。