E版  2015.10.10
D版  2015.09.19
C版  2015.08.15
B版  2015.06.21
A版  2015.02.22
初版 2014.12.13

色分けの凡例
飛行第五大隊/連隊/戦隊 第四航空教育隊    
陸軍航空本部技術部
/航空技術研究所
陸軍航空本部補給部立川支部
/陸軍立川航空支廠
/立川陸軍航空廠
陸軍航空技術学校
/東京陸軍航空学校
陸軍航空廠
行幸、行啓
石川島飛行機製作所
/立川飛行機
中島飛行機 昭和飛行機工業 瓦斯電気工業
/日立航空機
新聞社関係  日本航空輸送
/大日本航空
日本飛行学校
御国航空練習所/御国飛行学校
学生航空連盟
訪日機
 
訪欧機
 
太平洋横断機
 
満洲を除くその他の国への
訪問機
航空神社 航研機 ニッポン号 献納機


立川飛行場(概略年表)
西暦 元号 世相 軍・官 訪日機、訪欧機、太平洋横断機、他国訪問機
1921年 大正10年 2月  −  陸軍、航空第五大隊の敷地選定を開始。  −  −
6月  −  航空第五大隊用地に、東京府北多摩郡立川村字原市場西北部(今の立川飛行場)が選定される。  −  −
10月  −  航空第五大隊、岐阜県各務ヶ原の航空第二大隊にて、編成を開始。  −  −
  
1922年 大正11年 8月  −  航空第五大隊、飛行第五大隊に改称。  −  −
 立川飛行場、完成。大正13年の陸軍書類では、おおよそ40万坪。
11月  −  10日、飛行第五大隊、立川への移駐完了。近衛師団隷下に。  −  −
  
1923年 大正12年 2月  −  17日、飛行第五大隊、開隊記念祝賀会。  −  −
3月  −  −  日本自動車学校(元日本飛行学校)、航空科を設立し、立川飛行場(西地区)に練習所を開設。  −
9月  1日、関東大震災発生。立川飛行場は東京方面の空の出入り口となり、飛行第五連隊も各地との連絡飛行にあたった。  飛行第五大隊の震災飛行は、9月2日〜10月4日までの間に、延べ25日間・77時間余・117回に及んだ。  −  −
10月  −  −  朝日新聞東西定期航空会、関東大震災によって壊滅した州崎飛行場から立川飛行場(西地区)へ転居。  −
  
12月  1日、立川村、町制を施行。  −  −  −
  
1924年 大正13年 3月  −  −  日本自動車学校、日本飛行学校へ改称・再興。  −
11月  −  −  10日、11日、三等飛行士だけの競技会開催。出場者は25名。日、代々木練兵場から)  −
 10日、朝日新聞東西定期航空会の格納庫落成式。格納庫は、間口34間(61m)、奥行6間半(11.7m)、高さ24尺(7.2m)、飛行機が4機横並びで格納可能。
  
1925年 大正14年 2月  −  飛行第五大隊にて、陸軍初の爆撃隊としての飛行第七大隊の編成開始。大正15年10月、新しい衛戍地である浜松(三方ヶ原)に移駐。  −  −
5月  −  飛行第五大隊、飛行第五連隊に改編。同時に、偵察連隊から偵察と戦闘の混成連隊に改編され、大隊制(偵察大隊、戦闘大隊)も敷かれた。  −  −
7月  −  −  −  16日、訪欧機「東風」「初風」、立川飛行場に山階宮武彦王を迎えて、命名式。
 22日、代々木練兵場への出発式。(正式な出発は、7月25日、代々木練兵場から)
9月  −  −  御国航空練習所、山階宮武彦王により無償の練習所として開所。(翌年6月末、閉鎖)  −
  
1926年 大正15年 1月  −  −  −  6日、訪欧機「東風」「初風」のクルー4名、マルセイユから船で、神戸港に到着。大歓迎を受ける。
2月  −  飛行第五連隊、各中隊から1機ずつの3機により、鹿児島県鹿屋まで往復飛行。勝目中尉操縦の353号は、強い西風に乗って無着陸で立川へ到着。飛行時間、5時間28分。  −  −
4月  −  陸軍航空本部補給部の石田航空大尉、盲腸炎のため、寺師軍医正の判断によりユンカース改造の患者輸送機で所沢から立川へ空輸。立川衛戍病院にて手術。  −  −
7月  −  −  −  25日、東西定期航空会のブレゲー19A2「東風」号、訪欧飛行出発一周年を記念して立川を離陸して、東京市内を訪問、ビラを撒く。
8月  25日、多摩川に日野橋架設。日野の渡し・万願寺の渡し廃止。  まだ立川にいた飛行第七連隊、瀬戸内海の来島北要塞(小島北要塞)廃止に伴う爆撃実験に、海軍とともに参加。
 丁式二型爆撃機3機をもって2回ずつの水平爆撃を行うも命中なし。一方の海軍機(十三式艦上攻撃機3機)は好成績を上げる。
 −  5日、東西定期航空会のブレゲー19A2「東風」号、訪欧飛行出発一周年を記念して立川を離陸。北海道・東北地方を巡回飛行。20日に帰京。
9月  −  25日、飛行第五連隊第三中隊の西田航空軍曹、甲式四型戦闘機を操縦中に墜落。連隊最初の犠牲者と云われる。  −  3日、東西定期航空会のブレゲー19A2「東風」号、ポーランドからの訪日機を出迎えに大阪に向かい、天候不良で浜松に一泊。翌4日に、係留中の「東風」号、暴風により大破。
12月  −  −  株式会社石川島飛行機製作所、飛行第五連隊の飛行場隣接地を買収して工場建設に着手。  −
  
1927年 昭和2年 2月  −  7日、大正天皇の御大葬儀列車が立川駅通過(午前0時20分)の際、飛行第五連隊の将兵460名、列車を見送る。
 気球隊(261名)、補給部(21名)、技術部(72名)、所沢飛行学校(183名)などは、国分寺にて見送り。
 −  −
5月 日本軍、第一次山東出兵。  −  株式会社石川島飛行機製作所、飛行場東地区(飛行第五連隊施設の北側隣接地)に工場を建設、一部の操業開始。  −
6月  −  飛行第五連隊、偵察連隊に改編。  −  −
9月  −  −  −  2日、ソ連からのツポレフANT-3「ナス・オトヴィエート」号(RR-INT)、飛来。
11月  −  −  27日から翌月17日まで、朝日新聞東西定期航空会が試験旅客飛行。初日は代々木練兵場から飛行したが、翌日からは立川から運航。  −
  
1928年 昭和3年 3月  −  −  −  31日、フランスからのブレゲー19「ナンジェッセ・コリ」号、鉄道にて来立。機体組立後の4月8日、ハノイに受け、立kwを離陸。
4月  日本軍、第二次山東出兵。  −  1日、御国航空練習所の主幹だった伊藤酉夫氏により、御国飛行学校、設立。  −
5月  済南事件が起き、日本軍が第三次山東出兵。  −  −  −
7月  −  −  東京日日新聞、立川飛行場(東地区、石川島飛行機製作所の隣接地)に、格納庫を竣成。  11日、アメリカからのフェアチャイルドFC-2W「シティ・オブ・ニューヨーク」号(NX5501)、飛来。
8月  −  −  朝日新聞東西定期航空会、東京(立川)−大阪間の定期旅客運行開始。  −
10月  −  −  国策会社の日本航空輸送株式会社、設立。  23日、ドイツからのユンカースW-33L「オイローバ」号(D-1198)、飛来。
10月  −  陸軍航空本部技術部、所沢から移転をほぼ終える(開庁式は、昭和4年4月)。以降、立川は飛行試験のメッカとなる。  −  −
12月  −  御大典記念大観兵式に、各連隊や飛行学校からの参加機89機が立川を離陸。所沢からは66機が参加。  石川島飛行機製作所、転換生産の八八式偵察機の1号機完成。  −
  
1929年 昭和4年 3月  −  −  朝日新聞東西定期航空会、日本航空輸送株式会社に路線を譲って解消。翌月、日本海路線を運航する「定期航空会」を設立。  −
4月  −  1日、逓信省、立川を東京飛行場と定める。  1日、日本航空輸送株式会社、開業式。格納庫などは、西地区に建設。  −
 20日、航空神社遷宮式。場所は飛行場南端に接する地。
5月  −  −  −  11日、ドイツからのクレムL25「カメラート」号(D-1433)、飛来。
7月  −  −  15日、日本航空輸送株式会社、立川を使用して、東京-大阪(木津川)−福岡(大刀洗)線の旅客輸送開始。  −
 法政大学航空研究会(のちの航空部)、設立。立川(西地区)を練習場とする。翌年までに各大学の航空部が続々と設立され、学生航空がブームに。
11月  −  −  28日、朝日新聞、4人の歌人(斉藤茂吉、前田夕暮、吉植庄亮、土岐善麿)を招待し、コメット機(朝日102号)で湘南を一周。
斉藤茂吉の「飛行機にはじめて乗れば空わたる太陽の真理を少し解せり」は、この時の歌。
 −  −
1930年 昭和5年 2月  −  −  1日、法政大学の航空研究会、朝日新聞社格納庫にて披露式。航空局、日本航空輸送社長、朝日新聞社編集局長など多数列席。  −
    3月  −  −  株式会社石川島飛行機製作所、昭和2年から建設していた工場(立川飛行場、東地区)に本拠地を移転。  −
4月  −  −  −  7日、イギリスからのフォッカーF.Zb/3M「メリーランド・フリーステート」号(G-AADZ)、飛来。
5月  −  −  株式会社石川島飛行機製作所、設計及び製作関係設備全部完成、披露式。  −
6月  −  −  14日、学生航空連盟、「空の会」を開催。連盟側から計9機、陸軍から5機、海軍から2機、日本航空輸送会社から2機、大蔵商事会社からフォード1機が展示された。  −
7月  20日、西立川駅開業。ただし、今の位置よりもかなり東寄り。  陸軍航空本部技術部で昨年9月から建設中だった超重爆用の格納庫、竣工。  −  23日、イタリアからのフィアットAS-1(I-AAVE)、飛来。
8月  −  −  −  30日、ドイツからのユンカースA-50「報知」号(D-3)、飛来。
 31日、アメリカからのトラベルエア4000「東京」号(NR4835)、飛来。
9月  −  −  −  29日、太平洋横断機「タコマ市」号(NR153W)、霞ヶ浦から立川へ機体保管のため移動。
11月  −  −  −  24日、イギリスからのブラックバーン・ブルーバード(G-ABDS)、飛来。
  
1931年 昭和6年 3月  −  −  −  21日、フランスからのファルマンF.190「アルザ」号(F-ALAP)、飛来。
5月  −  −  −  28日、法政大学航空研究会の訪欧機「青年日本号」、立川を発ち出発地である開場前の羽田へ。
 29日、太平洋横断機「パシフィック」号(NR 153W、「タコマ市)号を改名)、立川を発ち出発地である淋代へ。
8月  26日、羽田飛行場、開業。逓信省、羽田を東京飛行場と定める。  −  26日、日本航空輸送株式会社、羽田からの運航を開始。他社は昭和8年秋まで残った。  6日、イギリスからのデ・ハビランド プスモス「JasonII」号(G-AAZV)、ソ連からベランカ スカイロケット「ミス・ビードル」号(NR796W)、それぞれ飛来。
9月  柳条湖事件起き、満州事変に発展。  −  −  5日、太平洋横断機「クラシナ・マッジ」号(NR153W、「パシフィック」号)を改名)、立川を発ち出発地である淋代へ。
 27日、太平洋横断機「ミス・ビードル」号(NR796W)、立川を発ち出発地である淋代へ。
11月  −  9月におきた満州事変に、飛行第五連隊にて出征部隊(飛行第二大隊)を編成し、出発。翌年6月中に、帰還。  −  −
  
1932年 昭和7年 1月  上海事件が発生。2月には同地で日本海軍が日本初の撃墜戦果を記録。同年5月、停戦協定なる。  −  −  −
2月  国際連盟特別総会での満洲国に対するリットン報告への確認にて、賛成は多数に対して、日本は唯一の反対票を投じて議場を退場。事実上の国際連盟脱退。  −  −  −
3月  満州国、建国。溥儀の皇帝即位は、翌8年3月。  −  −  −
1932年 昭和7年 4月  −  飛行第五連隊の在満部隊との交代のため、篠原大尉以下の地上部隊と、着任早々の藤田雄三大尉以下○○名・八八式一型偵察機○台、立川を出発。  −  −
5月  15日、五一五事件起きる。  −  −  −
6月  −  19日、飛行第五連隊、創立10周年および凱旋の記念祝典を挙行。  −  −
8月  −  −  石川島飛行機製作所、転換生産の九一式戦闘機の1号機(501号機)完成。  −
  
1933年 昭和8年 5月  −  4日、昭和天皇、陸軍航空本部技術部に行幸。  −  −
  
1934年 昭和9年 3月  −  陸軍航空本部補給部、所沢から立川(民間退去後の西地区)に移転を開始するとともに、陸軍航空本部補給部立川支部に改編。  −  −
1934年 昭和9年 5月  −  26日、陸軍航空本部補給部立川支部、開庁式。  −  −
11月  −  飛行第五連隊にて、外戦用の飛行第二大隊(戦闘)編成。満洲へ。  −  −
  
1935年 昭和10年 4月  −  11日、満州国皇帝、武蔵御陵参拝の帰りに立川飛行場を訪問。空中分列式にて、所沢・下志津の飛行学校機を交え、徳川少将機を先頭に88機による空中分列式。  −  −
7月  −  15日、飛行第五連隊長田中大佐、歌代少尉操縦の偵察機に同乗して立川を離陸後、機体故障から墜落。連隊長は機体から投げ出され殉職、少尉は翌日に殉職。  −  −
8月  −  1日、陸軍航空本部技術部、陸軍航空技術研究所に改編。  −  −
 −  1日、陸軍航空本部補給部立川支部、陸軍航空廠立川支廠へ改編。  −  −
11月  −  19日、皇太后、飛行第五連隊へ行啓。  −  −
  
1936年 昭和11年 2月  26日、二二六事件起きる。  −  −  −
7月  −  1日より、九一式戦闘機14機による東西日本各地との連絡飛行。第三中隊は原田大尉指揮により、立川〜仙台〜青森〜新潟、新潟〜直江津〜高崎〜立川〜三崎〜館山〜銚子〜立川〜桐生〜水戸〜立川の合計2,200km、第四中隊は佐藤大尉指揮、立川〜八日市〜広島〜大村、大村〜熊本〜松山〜広島〜明野〜立川〜館山〜水戸〜立川の合計2,600km。  16日、株式会社石川島飛行機製作所、立川飛行機株式会社に商号を変更。  −
9月  −  −  −  22日、朝日新聞社の「南進号」(J-BAAE、三菱鵬(おおとり)型、九三式双軽爆撃機の民間改造型)、東京−新京間の飛行ルート調査のため、立川を出発。ルートは、東京(立川)〜大阪〜米子〜清津〜新京(現 長春)。
12月  −  −  −  5日、朝日新聞社の「南進号」、東京−バンコク間の飛行ルート調査のため、台北に向けて立川を朝に離陸。
  
1937年 昭和12年 4月  −  −  逓信省は民間機製作工場確保のため、立川飛行機の第二工場(砂川工場)をあてることを決定、日本航空輸送が立川飛行機に出資することになった。  2日、神風号、広く夜間施設の整った立川飛行場から離陸するも、天候不良のため引き返す。セレモニーとして出発地は羽田飛行場だが、飛行時間の基点は立川飛行場。
 6日、神風号、立川飛行場を再出発。飛行時間94時間余にして、ロンドンへ到着。5月21日、羽田に帰着。
7月  7日、盧溝橋事件発生、日中戦争に発展。  飛行第五連隊は、飛行第一大隊(長・柴田信一大佐、偵察2個中隊、九四式偵察機)、飛行第二大隊(長・近藤三郎少佐、戦闘2個中隊、九五式戦闘機)を編成し、出征。  −  −
  
1938年 昭和13年 4月  −  19日、航研機、飛行準備のため陸軍航空技術研究所に飛来。  −  −
5月  −  −  13日、航研機、記録飛行に挑戦のため木更津海軍飛行場を離陸。クルーは、藤田少佐と高橋曹長、関根技手の3名。
 立川の陸軍航空技術研究所をはじめ、青梅、箱根崎、福生、八王子、相原などでも飛行を定点監視。
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7月  −  5日、第四航空教育隊、設置。  −  −
8月  −  31日、飛行第五連隊、飛行第五戦隊に改編。  −  −
11月  −  飛行第五戦隊、柏に転営開始。  7日、日本航空輸送の臨時株主総会にて、大日本航空株式会社に参加の件を承認し、事業を新会社に継承し本月末に解散と決定。  30日、ドイツから、フォッケウルフFw200コンドル「ブランデンブルグ」号(D-ACON)、飛来。
 20日、東京陸軍航空学校、開校式。
 29日、陸軍航空技術学校、所沢から移転開始。
12月  −  −  1日、大日本航空株式会社、営業開始。
 合わせて、羽田空港拡張工事のため、3月末まで民間機が立川を利用。
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1939年 昭和14年 1月  −  −  −  25日、大日本航空のハインケル116「乃木号」(J-BAKD)、羽田の拡張工事のため立川から、中尾純利を機長として日本タイ親善飛行。
2月  −  4日、羽田の拡張工事のため、立川にて愛国313「相撲」号の命名式。  −  5日、「乃木号」のタイからの帰路(バンコク〜立川間4,880km)を、台北を経由で、18時間36分、実飛行時間17時間50分で飛行。
3月  −  −  31日、羽田の拡張工事終了に伴い、民間機、羽田に戻る。  −
4月  −  陸軍航空技術学校、所沢より立川に移転完了。  −  −
 16日、第四航空教育隊、解隊時の事情から未実施だった開隊式を挙行。
5月  ノモンハン事件発生。同年9月に停戦協定。  −  −  −
6月    4日、立川飛行場にて愛国325「東京鋳物」号他17機の命名式。  −  −
 14日、陸軍航空研究所にて、航研機の藤田中佐と高橋少尉(両氏とも、戦死後昇進)の合同葬儀。所沢陸軍飛行学校学校での中佐の教え子であり少尉の同期である飯沼正明氏が航研機を操縦して、葬儀会場上空を飛行。
 飛行第五戦隊、千葉県柏に移駐完了。
8月  −  立川陸軍航空支廠、陸軍航空支廠立川支部に改編。  −  −
9月  ドイツ、ポーランドへ侵攻。ヨーロッパ戦争が始まる。  −  −  −
  
1940年 昭和15年 4月  −  名古屋の熱田兵器製造所の機体部門、千種兵器製造所の発動機部門が移転完了し、陸軍航空工廠創設。西地区を拡張。6月に、飛行機製造部門の移転完了。  −  −
 萱場製作所の無尾翼機(HK-1)、航空技術研究所にて試験飛行。
12月  1日、立川町、市政を施行。  −  −  −
  
1941年 昭和16年 3月  −  萱場製作所の夢尾翼機(萱場二型)、航空技術研究所にて試験飛行。5月にも飛行するが、着陸時に事故。  −  −
8月  −  陸軍航空廠立川支廠。立川陸軍航空廠へ改称。  −  −
12月  8日、太平洋戦争、始まる。  −  −  −