D版 2016.07.21
C版 2015.07.14
B版 2014.11.23
A版 2014.10.01
初版 2014.08.31

 日野には飛行場はないものの、大正11(1922)年秋に供用がはじまった立川飛行場の南側すぐに位置します。
立川飛行場の飛行第五連隊(飛行場開場当時は飛行第五大隊、大正14(1925)年5月から飛行第五連隊)の訓練飛行が日野上空で行われていたり、着陸に向けた進入が日野上空を通過していました。 戦後は米軍基地として立川飛行場が使用され、戦前と同様に、日野上空を使って着陸進入が行われ、現在でも、横田基地への南側からの離着陸は上空を通っています。
 これらの状況から、日野の航空史としては、不幸にしてほぼ事故史がほとんどであるが現状です。
現時点で知りえているものを、以下に列記しました。

日野市の航空史年表
西暦 元号 月日 記事 出典 備考
1899年 明治32年 8月  中央線多摩川鉄橋が見える日野町の多摩川河原において、水圧実験として木製気球模型(雛型)を川に沈め、風洞のように流れの中での安定性をチェック。
航空写真帖,
立川飛行場物語(下),
日本飛行船物語,
 本事項を記した市販書は多くないが、記載事項はほぼ同一である。『立川飛行場物語(下)』によれば、昭和8年5月の昭和天皇立川行幸の記念写真帖(『航空写真帖』)に写真と解説があるとのことで、それが引用元なのだろう。
 左写真は、『航空記事』の昭和8年7月号からで、本件を記載している市販書にはほぼ掲載されているもの。キャプションが明治三十三となっているが、三十二年が正しい模様。
 ただし、実験がなぜここで行われたかは不明。『立川飛行場物語(下)』では、大正2年にも、中野にあった気球隊が国立・立川のあたりまで遠征し、「そこで気球を揚げ、その夜は日野の土方七郎宅で宿営した」旨の当時の日誌が紹介されれていることから、珍しいことではなかったのかもしれない。

 なお、「日野橋付近」と記載の市販書があるが、日野橋は大正15年の架設であり、場所的にはそうなのかもしれないが、「日野橋付近」と記載されているのは歴史認識としては疑問符が付く。
1921年 大正10年 11月17日  大正10年11月に多摩地方で行われた陸軍特別大演習において、日野の名が出て来る。
 17日の東軍のモ式偵察機によって、「酒勾川の味方騎兵集団と連絡をとったが、上野原の枝隊は敵に圧迫され、日野高台の一角を襲撃されている。 敵の大縦隊は該(がい)高台に突進中である。かかる味方の苦戦に応じ、・・・(後略)」むねの無電報告が入つた。
日本航空史 明治・大正篇  この演習では、大正天皇に代わって皇太子(のちの昭和天皇)が統監しており、宝泉寺会館脇にある「御駒上之松」は、この演習時に馬を止めて演習を眺めたことの記念。山の上公園には、記念碑もある。
1926年 大正15年 2月10日  飛行第五連隊(立川)の小林善晴伍長は今泉一朗軍曹同乗の偵察機を操縦して訓練飛行中、南多摩郡日野町の上空で50mの高度にさげて同町郵便局の裏手を飛び、報告筒を投下してから上昇の瞬間、そこの某農家の庭のけやきのこずえに機翼が触れたので、たちまちハンドルをとり損じて屋根うえに墜落し、屋根をつきぬいておりしも庭先きで遊んでいた女児を圧殺するの椿事が突発した。女の子は同家の子供で、ひとたまりもない非業な最後だった。

  (陸上自衛隊立川駐屯地の資料館の展示写真)
日本航空史 明治・大正篇,
立川飛行場物語(上)
 当該機は、乙式一型偵察機(262号機)
 『立川飛行場物語(上)』によれば、日野町字仲町の農家の裏手の欅の枝に機翼がふれたため、同家の屋根をつらぬき、表庭先に遊戯中の同家の少女の頭上に転げ落ち」とある。
 当時の郵便局は、現在の日野駅前郵便局の甲州街道を挟んで反対側、今の本陣跡にあり、下佐藤家の経営だったとのこと。
 なお、陸上自衛隊立川駐屯地の資料館には、この墜落現場と思われるの写真が展示されている。(墜落機の方向舵 に、26○までは読める)  ただし、同写真の解説には「甲州街道八坂神社境内の巨木に左主翼を接触して、裏の民家に墜落、乳児を犠牲に・・・」とあり、出所や真偽は不明。 状況が具体的であることから事実に近い可能性は高く、「郵便局に通信筒を落として上昇する際、八坂神社の木に触れて、墜落」が推測しうる状況。調査中。
1928年 昭和3年 8月22日  所沢飛行学校の操縦学生宮沢太郎少尉、立川飛行場に出張して戦闘機の試験飛行中、発動機故障により東京府南多摩郡日野町に墜落。少尉は落下傘効果して無事。 東京日日新聞府下版,
写真記録 航空事故
 墜落地点は、『写真記録 航空事故』によれば、日野町の西方となっている。
 当該機は、甲式四型戦闘機(1015号機)。
1934年 昭和9年 2月6日  飛行第五連隊(立川)の福田乙吉軍曹は、東京府南多摩郡日野町上空において飛行演習中、発動機に故障を生じ、不時着場所を物色しながらの飛行中、中央線多摩川鉄橋の高架線に触れて鉄橋に墜落。軍曹は殉職。
東京日日新聞府下版,
航空殉職録 陸軍編,
叙勲書類
 墜落地点は、中央線多摩川鉄橋。
 当該機は、甲式四型戦闘機(機体番号不明)。殉職時、曹長に昇進、勲八等に叙勲、白色桐葉賞を授与された。
1934年 昭和9年 5月1日  陸軍航空本部技術部の甘粕三郎大尉は、東京府南多摩郡日野町上空において飛行演習中、錐もみ状態となり、日野鉄橋西方200mの多摩川河原に墜落。大尉は、落下傘降下して、軽傷。
東京日日新聞府下版  当該機は、新聞記事では甲式四型戦闘機となっているが、陸軍航空統計(昭和9年)には航空本部技術部の甲四戦の事故はなく、次の5件になっている。うち大破は1件なので、本事故が該当するだろう。
・将校による事故 4、下士官 1
・機種は、九一戦 1、キ三 1、キ四 1、キ八 2

 甘粕大尉が乗るなら、九一戦より、キ四(のちの九四式偵察機)か?
1935年 昭和10年 7月15日  飛行第五連隊長田中毅一大佐は、秋に開校する熊谷陸軍飛行学校付近を視察のため、歌代誠四郎少尉の操縦する偵察機に同乗して離陸したが、離陸上昇中に発動機故障、中央線鉄橋の東側にある高圧線に触れて、大佐は投げ出され、機体は付近に墜落。
 大佐は即死、少尉は重体で救出されたものの、翌日立川衛戍病院にて死亡。
東京日日新聞府下版,
立川飛行場物語(中),
航空殉職録 陸軍編,
陸軍書類
 墜落地点は立川町字沢(中央線の多摩川鉄橋から東へ約600m)とされているが、日野町域からも僅かであり、ここに含めた。
 事故後すぐに慰霊碑(左写真、『航空殉職録 陸軍編』より)が建られていたが、いつしか消失してしまっている。
 殉職により、少尉は中尉に昇進、勲七等に叙位された。大佐への叙位叙勲の記録は見つけ出せていないが、『航空殉職録 陸軍編』では、正五位勲二等に叙位、陸軍少将に昇進している
 当該機は、昭和9年9月に仮制式制定され、飛行第五連隊に配備されたばかりの新鋭。『立川飛行場物語(中)』では九四式偵察機(717号機、昭和10年2月製)。九四式偵察機の通算17機めの機体になる。
 防諜が意識されだしており、九四式偵察機の写真撮影・掲載が禁止されている時期だったせいか、事故機の写真は新聞に掲載されていない。
1938年 昭和13年 5月13日  昭和13年5月13日、木更津海軍飛行場を離陸した航研機は、銚子の犬吠埼灯台 → 群馬県太田の中島飛行機本社 → 神奈川県平塚の航空灯台→ 木更津海軍飛行場を結ぶ(ほぼ)三角形の周回コースを飛んだ。
 この旋回地点において地上要員が24時間体制で上空を通過する航研機を監視していたことはよく知られているが、それ以外でも、上空通過を監視報告していたことが陸軍書類から分かる。多摩では、箱根ヶ崎、青梅、福生、立川(航空技術研究所)、八王子であり、相原でも行われていた。
   
東京日日新聞府下版,
陸軍書類
 左記の監視視点に日野市の地名を見ることはできないが、中島飛行機本社と平塚の航空灯台を直線で結ぶと、日野市の西端上空を通過することが分かる。現地名では旭が丘、西平山が該当するだろう。  当日は、初日以外の天候は曇りであったが、日野から航研機を眺めていた人がいただろうことは想像に難くない。
1945年 昭和20年 8月8日  日野町に展開していた高射砲部隊は、中島飛行機武蔵製作所(現 東京都武蔵野市八幡町の武蔵野中央公園)を爆撃目標としていたボーイングB-29編隊を攻撃し、そのうちの1機を撃墜。

 撃墜された機体は、ボーイングB-29(44-87664、"City of Phoenix"号)、第20空軍第314爆撃団第29爆撃群第6中隊所)で、多摩川河畔(東京都国立市谷保)に墜落し、乗員8人が死亡、2人がパラシュート脱出。
 タマシンが公開しているタマシン公開資料によれば、この日は
  • 目標は、目視が中島飛行機武蔵野工場、ダメな場合、レーダー爆撃で東京陸軍造兵廠
  • 出撃機数は51機、進入高度は19,500〜22,450フィート(5,900〜6,800m)
  • この日、2機が高射砲で撃墜されており、1機が多摩に落ちた
  • 「攻撃目標に進入中、高射砲に最初に遭遇したのは立川上空」となっており、目標上空に到達したのは50機であったことから、多摩川に落ちたのが、目標に到達できなかった1機だろう
  • 晴天であり、目標に到達した50機の大多数は武蔵野工場に爆撃している

  •  墜落地点は、現在の東京都国立市谷保及び青柳にかけての多摩川と甲州街道の間の田園地帯で、現場付近で発見された8遺体は谷保天満宮北の滝乃院墓地に埋葬された。
     脱出したMorris 曹長とMorone二等軍曹は立川憲兵分隊に連行され、Morris 曹長だけが東部憲兵隊司令部に送られて、戦後帰国した。
     一方のMorone二等軍曹は翌日、立川憲兵隊近くで立川市民にさらし者にされ、その後、立川市羽衣町正楽寺墓地に運ばれて、立川陸軍航空廠勤務という氏名不詳の陸軍中尉により斬首、埋葬されたと云われている。
    様々なWebページ  展開していた高射砲隊は、高射第一師団高射砲第一一四連隊(本部、月島)の第十二中隊で、同師団連隊には九九式8cm高射砲または三式12cm高射砲が配備されていた模様。
     日野市の資料によれば中隊は、第三小学校に展開していたとなっている。
    1952年 昭和27年 8月6日  午後7時半前、爆弾を搭載して北朝鮮を目指して離陸したボーイングB-29爆撃機が、南多摩郡七生村(現日野市)平山と同郡由井村長沼両田の村境付近に墜落し、炎上した。
     積載した砲弾や銃弾に引火し、次々と爆発して周辺に散乱した。朝鮮戦争中の墜落であり、消防団や付近の住民は墜落機がB-29と判った時点で爆弾積載の可能性を察知し、消火活動を放棄して遠くへ避難したため、住民から怪我人は出なかった。
     目撃者の話や警察の調査によれば、事故機は離陸直後にエンジン故障を起こし、墜落地点に至るまで、由木村、由井村の人の居ない場所に次々と爆弾を投棄しながら高度を下げ、墜落したといわれる。
     現場は京王線平山駅(昭和30年に平山城址公園駅に改称)と長沼駅間の線路に近く、京王線は長時間不通となった。事故機の乗員12名は墜落直前にパラシュートを身に着けて飛行機より飛び出し、日野豊田鉄道グラウンド(豊田車両センターの辺り)に9名は無事に降下したが、2名は死亡した(残り1名については生死不明)。
     読売新聞は【八王子発】として、以下を報じている。
     6日午後7時15分ごろ都下南多摩郡七生村平山と同郡由井村長沼両田の村境、横田基地航空信号所下の田に大型米軍機が火をふきながら墜落、大音響とともに火柱を立てて爆発、機体は約2時間小爆発を続けて炎上山林約100メートル四方を延焼した。
    読売新聞  海外Webページでは、墜落地点は"YOKOTA AB 7 MI SSE"(横田基地から、南南東7マイル(約11km))。
     また、当該機(44-62237、"Tondemonai"号、98th爆撃航空団344爆撃中隊所属 )は、その写真が海外Webで残されている。本URLはその一例。
    1955年 昭和30年 10月9日  東京都日野町にダグラスB-26爆撃機(43-22343)が墜落炎上、乗組員2名が死亡。 日野宿発見隊Webページ  墜落現場は、多摩都市モノレールの甲州街道駅より北東へ約300メートル離れた場所とされ、海外Webの"2 mi from Tachikawa AB"(立川空軍基地から2マイル(約3km))とも整合する。事故機体の炎上写真は、日野宿発見隊Webで見ることができる。
     なお、日野宿発見隊Webページでは「B-26は既に使用されておらず、3枚プロペラからC-47では?」としているが、B-26には初代マーチンB-26と2代目ダグラスB-26(旧称A-26を1948年に改称)の2機種あり、前者は4枚ペラで、後者は3枚ペラ。前者は既にリタイアしていたが、後者はまだ現役で、日野に墜落したのは、海外WebでB-26と確認できている。
    1956年 昭和31年 1月3日  夜8時半頃、日野町下町の田に、フェアチャイルド C-119「フライング・ボックスカー」輸送機が墜落。
     墜落理由は、燃料切れとも高圧電線に接触とも。
    日野宿発見隊Webページ  墜落現場や事故機体の写真は、日野宿発見隊Webページで見ることができる。残念なことに、同ページではロッキード機(双胴=ロッキード?)となっているが、フェアチャイルド C-119が正しい。
     なお、本事故は海外Webでも確認できておらず、シリアルや所属部隊等は不明。
    1969年 昭和44年 1月12日  夜、横田基地を離陸した米空軍のF-4CファントムU戦闘機が、埼玉県入間市宮寺地区の山林に墜落、乗員2名(Captain John P. Wadsworth, Burton F. Fontenot)は殉職。
     高圧送電線切断により多摩地方(昭島市をはじめ立川、府中、日野市 の一部)の広域で停電。
    横田基地関連Webページ
    出典資料


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